日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

森と歌う 空とつながる @ 河口湖ステラシアター

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宿の大浴場の湯につかりながらぼんやりしてて、オブジェ効果という言葉を思いついた。何もない空間にオブジェをおいたとき、それによって空間の質感が決定づけられることがあるのではないか。

西洋美術館の庭園にはロダンの彫刻が飾られていますが、彫刻には物語があって、空間の質感を感じるには幾分か情報過多です。たとえば、横浜美術館ブランクーシ「空間の鳥」は、そこにあるだけで、その金の屹立に空気が引き寄せられていく。空間はわずかに緊張をはらんで、凛と研ぎ澄まされます。

ということを考えたのは、音楽もそうではないかと思ったから。

ある歌手の人が言っていたのだけど、声というのはホースの水みたいなもので、指で押さえると細く勢いよく遠くまで届く。シャワーノズルをつけると、霧のようにやわらかく降り注ぐ。その力強く硬質な声と、息をふくんだやわらかな声と、シーンごとに切り替えて歌うのだそう。

硬質な声には、あたりの空気が引き寄せられて、空間はぴんと張り詰める。やわらかな声は、空気と混じり合って、空間をほどく。楽器も同じで、ピアノをガーンと弾けば、空気は音の響きに一気に集約されるし、ポロンと弾くと、空間はほろほろ崩れてゆく。

しかしそれも音数が少ない場合であって、音楽がひとたび始まって盛り上がりに向かうと、音楽が空間を圧倒します。なので、音楽は音楽として聞けばいいけれど、音の立ち上がりや変化のときに、空気の質感が変わるのを感じる。そういうことが面白いなあと思うのです。

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先日、河口湖ステラシアターという半野外の会場へコンサートを見に行きました。ほんのり秋色がかった木々を景色に背負うステージ。夏のにぎわいは過ぎて、色味をおとした森に、静かに色づく紅葉のまだ浅い黄色。山の気温はぐっと冷えて、肌を冷やす。

音楽がはじまると、音色のひとつひとつが自然公園の空気とまざりあって、心地よかった。ホールのコンサートでは、照明やら何やらが空間を作っていくけれど、日没を待つ野外では土地の空気がさきにあって、その空気の質感に、声や楽器の音色が絡みあっていく。

そんなことを考えていたら、ステージの上の人が、自然の音や人の声があって、音楽があって、それらが空気中でまざっている感じが好きと言っていたので、その音と空間のイメージは、あらかじめ意図されたものだったのかも…?

音のひとつで空気が青く色づく。ぴんと張り詰める。はらはらとほどける。音の粒が光の霧のように拡散する。強いまばゆさからやわらかな光の雨へ。そういう音と空間の共鳴がとても心地よかった。野外ならではかもしれないなあと思いました。

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空間をつくるのではなく、空間に共鳴させていく。ハーモニーとは完全無欠の奏でではなくて、ひとつひとつ色をもった粒が、それぞれの様相をはかって、関係をつくっていくことなんじゃないかな。自律した音たちが、ときにぐっと絡んでみたり、余白をとってみたり。

その駆け引きにも似た力の推しはかりは、相手に自律がなければできないことで。お互いを聴き、響かせ合う。世界と私の調和。いつもというわけじゃないけれど、こういう機会で感じることができるのは幸せなことだなあと思いました。


追記

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参考にリンクをはった、ブランクーシ「空間の鳥」についてのコラム記事が削除されてしまいました。
とても好きな内容でしたが、やたらめったら引用するのもと思ってたら、消えてしまって。なんなら魚拓とっておけばよかった。
内容は、美術館にいく時には、意外な友人を連れて行くといいというものです。
記者には鳥類学者の友人がいて、なんの作品を見せても、「足の感じが違う」とか矛盾を見つけたりて、鳥類学者ならではの見方をするのだそう。このアート好きの記者は、あるとき意地悪を思いついて、彼にブランクーシの「空間の鳥」を見せます。「何の鳥かわかる?」という質問に、あっさり答えてしまったという鳥類学者。なんでも、頭の小ささとか、飛び立つときのスタイルとかでわかるんだそう。なかなかそんな友人ちかくにいませんけどね。
*写真は横浜美術館のコレクション展のもの。