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日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

これからの美術館事典 & 誰がためにたたかう? 展@東京国立近代美術館

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8月15日終戦の日東京国立近代美術館に行ってきました。

おりしも午後から日本武道館で全国戦没者追悼式が行われるとのことで、美術館に行くひと以外は通行止め。交通整備の方に通してもらって、美術館へ。この時期ちょうど近代美術館では、戦争画の展示をやっているのでした。

今年は戦争に関する作品をたくさん見た。行ってないところもたくさんあるけれど。「誰がためにたたかう?」展はそのなかでも、大きな展示会だったかなと思います。

No Museum, No Life?―これからの美術館事典

その前に、1階の企画展では「美術館」を思索する展示。AからZまでのアルファベットの頭文字をもつキーワードごとに作品を展示し、美術館をささえるもの、美術館たらしめているものについて、考察をめぐらせていきます。

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芸術とは、個人の想像力の源泉から生み出されるものと考えられた近代以降、教育という理想もまた時を等しくして成立してきました。ゴヤドラクロワの作品にその姿を見るに、私たちが美術や美術館にもつ像も、いまだ近代のころの価値観にしばられているのかもしれないと、気づかされます。

しかし、20世紀に入ると、その価値観の問い直しが行われます。額縁をかければ、壁に開いたただの穴もアートになる。植物にアルファベットを教えるプロジェクトという、教育を皮肉ったものもありました。私たちが芸術、アートと思っているものの正体は、いったい何なのだろう。

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市街で行われる一回きりのパフォーマンスアートなど、表現の場を美術館の外に求める作品も現れます。しかしその様子は写真として記録され、ふたたび美術館において再現されるのでした。

アートとは人の心の豊かさを育む善いものであるという一面と、全く相反して、既成のものを打ち破ろうとしてきた面も持ち合わせる。その矛盾を抱きながら、時に教育者であり、ときに古きを壊す革命者でなければならない。そんな美術館のこれまでとこれからにふれる展示会でした。

誰がためにたたかう?

浮世絵の戦争画展にいったときに、戦争画の展示はこれまで避けられる傾向にあったとの説明があって、そう考えると国立近代美術館の戦争画展は、けっこう思い切った試みだったのかもしれません。

動物たちに仮託した戦いの姿や、キリスト教の殉教図に重ね合わせて犠牲者を描いた作品には、戦うことへの冷めた視線があります。

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御厨純一「ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲」1942年/藤田嗣治「哈爾哈河畔之戦闘」1941年

一方で、戦時中、兵士たちの活躍を知らしめる戦争記録画は、むしろ戦争を鼓舞するものでした。

これらの作品は戦車や戦闘機、落下傘部隊など、新しい技術のイメージとともに描かれました。パノラマの構図で大平原をとらえた広がりのある画面や、たなびく煙が戦闘機の大胆な動きを表現する作品、高高度から見下ろす戦場など、皮肉にも、絵画は戦争画において新しい視覚体験を獲得したのでした。

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中村研一「コタ・バル」1942年

軍からの委託を受けて戦争画を制作した中村研一は、藤田嗣治と並んで多くの戦争記録画を手がけました。展示されるのは、当時、朝日文化賞を受賞した作品。敵地に上陸する兵士たちを、緊迫感ある重い空気の中に描いています。

戦後の画家たちは、これまでの理想化された暴力を、嫌悪するものとして描こうとします。それらの作品を凝視することはできても、カメラを向けることがどうしてもできなかった。自分のなかに生じる抵抗感が、思うよりも大きくて、驚きがありました。

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岡本太郎「夜明け」1948年/岡本太郎「燃える人」1955年

この後は岡本太郎のアメリカの核実験をモチーフに描いた作品を展示。戦後の核と日本の複雑な関係性に、思いをはせてしまう。

核による敗戦国の日本が、戦後手に入れた原子力という大きな力。核への思いは憤りでもあり、強大なエネルギーへの憧れでもある。その葛藤は、今日の私たちへとつながっています。

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吉岡堅二「楽苑」('50)「柿」('48)/福田豊四郎「英領ボルネオを衝く」('42)/吉岡堅二「ブラカンマティ要塞の爆撃」('44)

日本画からは、従軍画家として戦争記録画を制作した吉岡堅二の作品を多く展示。

印象に残ったのが「ブラカンマティ要塞の爆撃」でした。ブラカン・マティ島は、今はセントーサ島と呼ばれるシンガポールのリゾート地。上空から眺めおろした美しい島に、戦闘機の黒煙が覆っている。ここでも、戦争画において、新しい表現を切り拓こうとした跡が垣間見えます。

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セバスチャン・サルガド「サへルの飢饉」より(1984-5年)/嚴培明「スーダンの少年」1998年

最後の部屋は、さまざまな戦いが残した傷を描く作品がならびます。戦いを描く作品をめぐって、締めくくりは静かなテーマです。

自分が誰かを傷つける側にいるかもしれないこと。おのれの中の傷を見つめること、その傷とともに生きること。いつかの戦いも、私たちは傷を負い、そして誰かを傷つけたのでした。

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佐藤玄々(朝山)「動」1929年/藤田嗣治「動物宴」1949-60年

今回の展示は、企画展・コレクション展ともに、藤田嗣治の作品がとても多かった。次回の展示会は藤田嗣治展なのらしい。その布石かな?

作品をきちんと見たのはこれが初めてでした。エコール・ド・パリだなあと思わせる、か細い線と光の描写のものもあって、戦争画のようにダイナミックなものもあって。あと猫の絵が多かった。また猫描いてる、って思った。藤田嗣治に関してもいろいろ感じましたが、次の展示会までとっておこう。

感想

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戦争記録画のほとんどは戦争を鼓舞するもので、雑誌の特集で見かけたときは、ダークなものをあえて好むというような趣味傾向に感じて、少なからず抵抗を覚えたのでした。けれども作品をじっくり見て、事実としてあったものを、なかったことのようにするのも良くないなあと思い直したり。

戦争画を見直す意義のひとつは、戦争絵にも感じたのですが、その時期たしかに技術の革新が見られるからなのでしょう。需要がそうさせたこともありますが、新しい表現がそこで追求されたのでした。

もうひとつ思うのは、その時代に、戦争は良くないことだと思える人がどれだけいたのだろう、と。同じ空気になれば、私も戦争を賛美する側のひとりになってしまうかもしれない。今夏いろいろな作品を見て思ったことは、狂気のなかにいれば、ひとは狂気に順応してしまうということです。

「どうすれば同じ過ちを繰り返さないか」ということが、何にも増して大切ではないかと思う一方、それは一国の努力だけで成そうとしても難しいものではないか、と思ったり。

70年という年月は、日本の平均寿命とほとんど同じだけの年数ですから、ひとつの時代が終わろうとしているのかもしれません。その次の時代に何をつなぐか。静まり返った皇居をのぞむ美術館の「眺めのいい部屋」から、交錯する人の思いのその焦燥に、焼けつくような夏の一日を眺めたのでした。

戦争画展、海外の人が多かったのが印象的。藤田嗣治らの作品はどんな風に映ったのかな。このほか中平卓馬さんの写真などを展示する「事物-1970年代の日本の写真と美術を考えるキーワード」 展もやっていました。時間がなくて見ずに切り上げたけれど、心残り。これだけ見にまた行こうかな。

関連URL

ラカン・マティ島について

シンガポール血の粛清 陰で救った篠崎護 | 北村はじめの『ちょっと立ち読み』
かつて、この島はブラカン・マティ島という名前だった。
ラカン・マティとは、背後から死が忍び寄るという意味だ。中国語では絶后と書く。島名は、1972年に公募で「セントーサ」に変わった。マレー語で「平和と平穏」を意味する。

http://www.cheers.com.au/entertainment/dancingman/848/

19世紀英国の植民地となったシンガポールは、英国・インド・清国の三角貿易の中継地点として発展していきます。シンガポール港を守る役目でシロソ砦がつくられたセントーサ島は、第二次大戦で、日本軍のシンガポール攻略の際には戦いの舞台となり、また、マレーの虎こと山下奉文中将が戦犯とされた理由のひとつ「シンガポール華僑虐殺事件」の現場や、日本軍占領下の捕虜収容所となるなど、戦争の記憶が残る場所でもあります。
戦争画の再評価を試みるとき、同時にこういった歴史も知っていかないと危ういなと感じる一節でもありました。

戦争画についてはこのサイトが詳しそうだった。