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日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

ダブル・インパクト 明治ニッポンの美|東京藝術大学大学美術館

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黒船来航をきっかけに開国となった日本には、西洋の思想や文化、生活様式が流れ込んできました。
日本が西洋に受けたインパクト、そして東の果ての小国を訪れた西洋人が受けたインパクトの二つの軸からなる美術展。

黒船来航から明治維新を経て、日露戦争まで50年ほど。ごく短期間に日本が西洋文明を受容し、西欧列強と肩を並べようと望むまでになりました。その動乱の半世紀を追う展示です。ときに西洋の影を追いながら、あるいは自国の古典を振り返りながら、受容と反発を繰り返してきたのでした。

コンセプトの強みを感じる展示会でしたが、ここでは個人的に好きな作品を数点あげてまとめとしようと思います。

狩野芳崖フェノロサ

脱亜入欧」の言葉どおり、明治期日本のめざすものは、西洋文明を取り入れていくことでした。

長府藩の御用絵師だった狩野芳崖は、明治維新後は他の士族と同様に平民となり、手がけた養蚕業もうまくいかず、生活に困窮する有様だったといいます。狩野芳崖の人生の転機となったのは、哲学教師として日本にやってきていたアーネスト・フェノロサとの出会いでした。

極東の地をおとずれて、すっかり日本美術のとりこになっていたフェノロサは、これらが美術品であるとは思いもしない日本の現状や、西洋美術と比べたときの思想の弱さを見抜いて、開かれていく時代に向けての日本美術を、新たに作り上げていく必要性があると感じていたのでした。

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狩野芳崖「谿間雄飛図」1885年 ボストン美術館

国際社会から見たときに「日本的である」と言えるもの。それを作り上げるためには、日本美術の正統性が必要でした。フェノロサが日本の古典として目にとめたのが、狩野派だったのです。当時、フェノロサに見出された芳崖は、彼とともに新しい日本の絵画、つまり日本画を模索していきます。

狩野芳崖の代表作、悲母観音も展示。さながら日本のマリア像のような聖性の演出。理想を描く西洋の宗教画にもちかい印象をうけます。振り返ってみると、なるほど和洋折衷なのだなあと思いました。

谿間雄飛図は墨で描きながらも、濃淡で光を表現し、また遠近感を意識することで、広い空間をつくりあげています。手前と奥は同じ半円の曲線で呼応しています。その間を勢いよくおちる垂直の滝。透視図法的な崖の溝や濃淡で表された陰影が、視線を深淵へと誘う、理知的な構図です。

フェノロサの理論をもとに描かれたという作品。そうと言われなければ気づかなかったけれど、光の意識や、自身を起点とした空間のとらえかたなど、西洋的なものが何であるのかを、むしろ感じさせてくれる作品もあります。またそのために、単純化された構図や余白の美が際立つようでもあります。

朦朧体 菱田春草、下村観山、横山大観

フェノロサとともに日本画をつくりあげることに尽力したのが、東京美術学校の設立に貢献した岡倉天心でした。これがのちの東京藝術大学であり、今回のダブルインパクト展の主催というわけなのです。

その岡倉天心と志をともにした横山大観菱田春草、下村観山は、新しい日本の絵画を模索していきます。輪郭線を描かずに色彩の濃淡で表現する朦朧体は、空気や光を描くために考案されました。

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菱田春草「月の出」1904-05年頃/下村観山「夕暮」1904-06年頃/横山大観「月下の海」1904-05年頃 | ボストン美術館

朦朧体の作品が並んだ今回の展示。横山大観のものは好評価な声がちらほら聞こえましたが、個人的にはいつも菱田春草の作品にひかれます。

山の裾に色の切れ目が水平に走って、おそらく絹目に偶然できた線だと思うのですが、それが湖面にも見える。下方のぼかしは、山の霧か川の靄か。眺めているとその静寂に吸い込まれそうになります。

下村観山の作品もいいなと思いました。当時、土佐派リバイバルと紹介された観山の作品は、朦朧体の作風にはあたらないそうですが、木々や地平の境界は、線をもちいず、墨の濃淡で描いていて、朦朧体の手法かなと思います。

近代洋画家たち

近代日本画の成立にフェノロサの存在が大きかったように、洋画にも日本に訪れた欧米人が、その成立に大きな役割を果たしました。イギリス人画家のチャールズ・ワーグマンは特派員として日本を訪れ、各地の自然や生活、風俗をスケッチに残しました。

ワーグマンから西洋画の技法を習った高橋由一が、師の描いた大衆浴場を、模写した作品が展示されていました。当時の日本は混浴が当たり前で、来日外国人の多くがこのことに驚いたという話。ワーグマンら外国人から見た日本の新鮮さが伝わってくるようです。

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高橋由一「浴湯図 」1878(明治11)年/小山正太郎「白菊」1900(明治33)年 | 東京藝術大学大学

明治9年になると、イタリアから画学教師としてアントニオ・フォンタネージが来日します。政府の財政悪化もあって実際には2年あまりの滞在でしたが、本格的な美術教育をおこなって、学生からの信頼も厚く、彼の指導のもとからのちの洋画界で活躍する人物を多く輩出しました。

しかし日本美術への関心が強まると、国粋主義ともあいまって、洋画排斥の声が高まります。「洋画をやるものは国賊なり」と言われた時代、洋画は冷遇されていきます。小山忠太郎、浅井忠らは、こうした状況を打開しようと明治美術会を結成、洋画の普及は国家の利となることを訴えたのでした。

明治26年には、黒田清輝、久米桂一郎がフランスから帰国します。アカデミックな画風と印象画の表現技法を学んだ黒田清輝によって、日本洋画界は新しい時代を切り拓いていきます。近代日本画成立の影には、洋画の苦難の時代があったのでした。

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吉田博「妙義神社」1900(明治33)年頃 | ボストン美術館/山本芳翠「西洋婦人像」1882(明治15)年 | 東京藝術大学大学

日本画が理想化された抽象的なものを描いていくのに対して、風俗を描きおさめているのは、この時代むしろ洋画に見られるように思います。ワーグマンがジャーナリストだったり、フォンタネージがバルビゾン派に影響を受けていたりして、「ありのままを描く」眼差しが継がれたのかもしれません。

また、西洋絵画が日本に受け継がれるとき、やはりある種の洗練がなされるように思います。濾されて澄んだ技術だけが伝わる。それが心地よくもあり、またそこに映る濁りはきっと日本独自のものでもある。まだそれを言語化できるまでには、もう少し数を見ないといけないかなあ。

まとめ

日本らしさというものは、どうも明治頃にできたんじゃないかなあと思っていたのだけど、フェノロサがもっと明確にそのことを意識していたのだと知って、なかなか感服させられました。

騎士道や武士道が整えられたのは、実は平和な時代に入ってからだという話を聞いたことがあって、のちの時代に理想化されて形づくられているものは、意外に多いのだろうと思わされます。

フェノロサ狩野派を日本の正統性として見ましたが、大和絵の流派はあまり重要視しなかった。おそらくそれは、西洋画の理論にもとづいたときに、より発展性をもっていたのが狩野派であったからではないか、というようなことが説明書きに書かれてありました。

もちろん狩野派は日本の最大画派であり続けたわけですし、正統派として評するに不足はないと思いますが、しかしそのために大和絵の評価が遅れたとも言えるのかもしれません。

時代の要請でつくられる「らしさ」が見えて、興味深く感じました。

参考

5/17(明日)までだった!あわててブログ書いた。文章書くの遅いからいつも一週間くらいかかる。
べつに開催終わってから書いてもいいんだけど、何となく、開催中にアップしたい気がする。