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日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

パスキン展@パナソニック汐留ミュージアム part2

パスキン展、作品についても感じることが多かったのですが、画家の人となりにも考えるところがあったので、追記的に書いておきます。

展示会の感想はこちら。

モンパルナス 狂乱の時代

印象派の時代から第一次大戦後の好景気まで、フランスは世界の芸術の中心地でした。シャガールが「あの時、芸術の太陽はパリだけを照らしていた」と語った1920年代。第一次大戦が終わり、開放感と好景気に浮かれたパリはその最高潮にあり、狂乱の時代と呼ばれました。*1

パリ郊外のモンマルトルは家賃が安いことに加えて、屋外風景を描くのに好ましい景色が残っていたため、19世紀末の画家たちが移り住み、芸術家たちの集まる街となっていきます。

第一次大戦後に観光地化が進むと、モンマルトルの土地は高騰し、多くの画家はセーヌ河左岸のモンパルナスへと移りました。さびれた郊外のモンパルナスに、安い家賃と物価をもとめて芸術家たちが集ったことで、世界中からさらに多くの若い芸術家たちを呼び寄せることとなるのでした。

モンパルナスにやってくるのは、わずかな金銭を握った放浪者たちだけではありませんでした。パリの熱狂に惹かれて、資産家やアートコレクターもまたこの街に集いました。

モンパルナスの独特な空気の中で画家たちのつながりが育まれました。前衛芸術のフォーヴィスムキュビズムとは距離をおいた、情緒的な具象画を描く異邦人画家たちをおもにして、エコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれています。

伝統的な価値観に背を向けて奔放で、ときに不道徳にふるまう芸術家たち。ジュール・パスキンはそんなパリ狂乱の時代を象徴するように生きた画家でした。

放蕩息子の帰郷

ブルガリアの裕福な穀物商の家に生まれたパスキン。両親はともにセファルディム(南欧に定住したユダヤ人)の家系でした。つねから厳しい父と反りが合わずに、17歳のとき父の商社に入ったものの、娼館への出入りを咎められて、家を飛び出します。

北アフリカ、アメリカなどを転々としたのち、ミュンヘンで美術学校に通って絵を学びました。ミュンヘンの人気風刺雑誌「ジンプリツィシムス」の挿絵画家として採用されたのが19歳のとき。素描画家として、その一歩を踏み出します。

挿絵の仕事を続けながら、翌年にはパリへと移り住みます。すでに人気画家となっていたパスキンでしたが、本格的な作品で評価されたいと考えていたようです。パリでは油絵に取り組みました。この頃、妻となるエルミーヌと出会います。第一次大戦中には戦火を逃れてアメリカに移住、この地で結婚しアメリカ国籍を取得しました。

アメリカではフロリダやキューバへ旅して描いた作品が残っています。まだ彼らしい独特の色彩にはいたっていませんが、穏やかな暮らしと明るい陽射しは、その作風に変化を与えました。

「アメリカは素晴らしい国だが、そのアメリカにふさわしい絵画が生まれるには、あと数世紀必要だ」と語ったというパスキン。第一次大戦後にはパリにもどり、モンマルトルに住居を構えます。それはパリの華やかな10年の幕開けでもありました。

パリに移り住んでからの10年はパスキンの円熟期でした。
拡散する虹色の光を描くような「真珠母色」の色彩。その光の空間に佇む女性や少女の曖昧な輪郭。高い評価を受けて時代の寵児となったパスキンでしたが、一方でピカソマティスの評価には届かず、画業への焦燥もあったようです。毎晩続く華やかな社交生活に次第に体調を崩していきます。

パリの生活で、かつての絵のモデルだったリュシーとの再会から、ふたりは愛人関係となりました。妻エルミーヌは二人の仲に気付き、身を引くことを決めていたようです。しかしリュシーの方は家族を捨てることができずに、またパスキンの廃退的な生活がもとで離別を繰り返します。

さらにベルネーム・ジュヌ画廊との専属契約を交わしたパスキンは、そのことで自由を失ったと感じていたようです。パリで開催された個展の前夜に、アトリエで自ら命を絶ってしまうのでした。

リュシーに書いた手紙には、しばしば長い別れを告げるあいさつ「adieu」を記したというパスキン。彼の最後の手紙も、その言葉が綴られていました。パスキンの死後、彼の手元にあった作品はリュシーが受け継ぎ、彼女の息子ギィ・クローグのコレクションとして今日に伝えられています。

サロメ」や「放蕩息子」といった聖書のテーマを版画で繰り返し描いたパスキン。父親との仲違いで故郷を出てのちは、多くの土地を旅し、さすらうような人生でした。彼が描いた風刺画「放蕩息子」では、故郷に戻った青年を迎えるのは、娼婦の女性たちです。

多くの作品で、男性を破滅へと導く女性の象徴として描かれる「サロメ」も、パスキンの作品では女性の悪意よりも、男性たちのあらがえなさを描いているように思います。

長い放浪の果てにパスキンが帰ろうとした場所はどこだったのでしょう。束縛を嫌った末に選んだ自由だったでしょうか。あるいは求め続けたのは父親との和解より、優しく包み込んでくれる女性の存在だったのかもしれないと思ったりもします。

民族アイデンティティと美術

パスキンはユダヤ人でしたが、自分の民族性にはあまりこだわらなかったようです。旅好きのパスキンでしたが、当時おこったシオニズムの象徴であるイスラエルを訪れることもなかったといいます。ただ反ユダヤが強まる世相の中で、そのことについては強く反発したそうです。

絵画を知っていくと、民族のアイデンティティを見出そうとする眼差しに出会うことがしばしばあります。そういう意味では、パスキンは珍しい画家だなあと思いました。流浪を運命づけられたユダヤ人。ボヘミアン・アーティスト。コスモポリタニズム。さまざまな言葉が漂泊する画家を形容しました。

多民族国家であったハプスブルク帝国には、コスモポリタン地球市民)という考え方があったのだという話を聞いて、印象深く思ったことがあります。国内の被支配民族から独立の声があがるようになったのは、オーストリア帝国ハプスブルク帝国)が衰勢を見せていた19世紀中頃のことでした。

皇帝ヨーゼフ一世は帝国の権威を守ろうとしましたが、厳格な父に強く反抗した皇太子ルドルフは、保守的な父と違って自由主義の思想を抱き、国内の諸民族の民族主義を支持して政府を批判しました。ついには恋人との自殺を遂げた息子に、皇帝は強い衝撃を受けます。

強まる民族主義オーストリア帝国は、多数派のマジャル人と友好を結び、すでにオーストリア=ハンガリーの二重帝国を成立させていましたが、皇帝の決断には、息子をはじめとした身内からの要請も大きかったのです。

世界市民を誇りにした時代は霞のように散って消えてしまい、その後にはサラエヴォ事件をきっかけとした第一次大戦オーストリア=ハンガリー帝国の終焉、そして第二次大戦と、大きな事件が待ち受けることとなります。

民族意識が強まるハプスブルク帝国を生きた画家にアルフォンス・ミュシャがいます。フランスで挿絵画家として活躍していたミュシャでしたが、彼自身はモラヴィア(現在のチェコ)に生を受けたスラヴ人でした。後年は自身のルーツであるスラヴ民族を意識した作品を中心に手がけました。

ミュシャのほうがパスキンよりも25歳ほど年上ですが、ともに二つの大きな戦争の狭間の不安定な時代を生きた画家でした。一方は絵画で民族のアイデンティティを表現しようと努めましたが、一方はその世相の中で、民族意識から背を向けて生きたように感じました。

パスキンはパリに舞い戻ってからも、強まる反ユダヤ主義から逃れるように、時おり旅に出ることもあったそうです*2。彼にとっていくつもの知らない土地を旅することは、その土地の民族性を身に刻む行為ではなかったかと思います。

彼はユダヤ人であると同時に、ブルガリア人であり、ドイツ人であり、フランス人である。それでいてアメリカ人でもあった。少しずつそうでありながら、その結果、何者でもなかった。多くの民族性を身につけていくほど、自分の民族のルーツは透明になっていきます。

何者でもないことが、彼自身であるかのように。

アイデンティティの確立に民族という物語が重要なことは、どの時代の美術作品にもその模索があることを見れば明らかです。けれどもパスキンのような表現者もいるのだと、当たり前ながら、改めて思いました。

第二次大戦に向かっていく時代に強まる民族主義の世相と画家の関係には、もう少し良い例があるかもしれませんが、少ない私の知識ではミュシャの存在が思い出されました。

以前に六本木ヒルズで開催されたミュシャ展は、スラヴ民族としてのミュシャの作品も多く並び、とても面白い展示会でした。行っただけでブログにしてない展示会はいくつかあるのですが、ミュシャ展は後から書いておけばよかったなあとしばしば思います。

結びに

パスキンは自由をもとめてアメリカ国籍を取得したり、旅にでたりしたし、フォーヴィスムキュビズムにも無関心という、我は我なり、という生き方を徹したように見えるけれど、むしろヨーロッパ社会からの逃れなさのようなものも同時に感じます。

アメリカに移住したものの、けっきょくパリに戻って、その10年で命を燃やし尽くしてしまう。モンパルナスの王子と呼ばれながらも、一人の女性との愛に悩み命を絶ってしまいました。いくつか残っているフォーヴィスムキュビズム的な作品にもまた、近いことを感じさせます。

45歳まで何かを成せなければ、その先も成すことはないと語ったパスキンは、自分自身のはいたその言葉に殺されてしまったけれど、いや、生きていればきっとその先は必ずあった。けれど時代から自由になることだけは、どの作家にも難しいことであるように思います。

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ジュール・パスキン「モデル」(1912年)グルノーブル美術館

ちょうど最近観た映画。

フランスかぶれのアメリカ人脚本家が1920年代のパリにタイムトリップしてしまうお話。
フィッツジェラルドヘミングウェイが目の前に現れる夢のような時間。新キャラが出てくるたびに、ピカソだダリだモディリアーニの絵だと当てっこすると楽しいかも。

スターウォーズファンの子供たちを主役にした映画でファンボーイズってあったけど、ああいう感じの、ファンが半ばメタ的に楽しむ映画って感じがした。オタクがリア充と和解せず終わるのは、映画スターシップ・トゥルーパーズの劣等生と優等生たちの関係にも似た展開である。

偏差値が高くても低くても、オタクの心性は同じなのだなあと思ったのでした。

参考文献や関連情報