オリエントホール 本展示は撮影可(フラッシュ不可)です。
今行くのは時期的にどうかとも思いましたが、時間が経つと腰が重くなりがちな気がして、早いうちにと出かけてきたイスラーム展でした。*1駒込にある東洋文庫ミュージアム。美術館やら博物館に行くときは展示空間も楽しみのひとつですが、ここは小さいながらとても心地よい空間。休日の正午ごろ館内に入ったところ、無人の展示室に中庭をのぞむガラス張りの窓から光が満ちて、しばらく展示も見ずにうろうろしてしまいました。
なお15時から文庫員ガイドツアーがあったようで、その頃には来館者わらわらという感じでした。
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もともと東洋学というのは、西洋からみた東方諸地域を対象とする学問のことを指すのだそうで、まずはヨーロッパの人たちによって翻訳されたコーランがずらりと並びます。
イスラーム教に深い関心を寄せてはいたものの、彼らはキリスト教徒でした。信仰する宗教の優位性を信じながらも、すぐ隣に広がるもうひとつの世界を知ろうと試みました。聖典翻訳という事業を成し遂げるのに必要だったであろう、根気と情熱に思いを馳せます。
二階はモリソン書庫と所蔵品展示室をはさんで、引き続きイスラーム展の展示。
日本ではなじみの薄い宗教ですが、世界の人口の4人に1人がイスラーム教徒だと言われます。
イスラーム教徒が多数を占める地域は広範囲にわたっています。北アフリカや中央アジア、東南アジア、そして中国の少数民族。この展示室では世界各地でイスラーム教徒として生きてきた人々と、周辺地域へ伝搬し土着したイスラーム文化を紹介しています。
そして避けて通れないのがテロリズムの歴史。その支えとなった思想にも少しだけふれています。
19世紀ヨーロッパの植民地主義に対抗するかたちで、イスラーム世界が誇りを取り戻すためには初期の教えに立ち戻ることが必要だという考え方が出てきました。イスラーム復興運動は、キリスト教の根本主義になぞらえてイスラーム原理主義と呼ばれています。
非西洋的な近代化を模索したムハンマド・アブドゥフと、彼を継いでシャーリアへの忠実を説いたラシード・リダー。彼らの思想はムスリム同胞団を創設したハサン・アル=バンナーや、より積極的な実践を説いたサイイド・クトゥブによって、アラブ社会の複雑で苛烈な現実の中に先鋭化していきます。
ちょっとテンションがあがったのが、モロッコで作成されたアラビア語の契約書。土地や相続に関わる重要な契約は、子羊や子牛の皮を加工してつくった上質紙(ヴェラム)に記されました。
契約書は一回書いておわるのではなく、複数あった契約書をのちにまとめたりして、どんどん文字を書き足していきます。おさまりきらないと、紙の向きを変えて余白に書き込みました。そのため耐性のあるヴェラムが使われたのだそうです。
羊皮紙。質感はどうなのか、厚いのか薄いのか、そういうことを知りたくてgoogle画像検索にお世話になったこともありました。実物を見れて満足です。触れたりはできませんが、しわの感じから厚みがあるように感じました。加工のしかたによるのかな。皮っぽい感じがあります。
インクを「燃えるような赤」と表現している小説があったけれど、どちらかというとワインのような暗い赤。文字がみっちり書かれたものや、装飾的な箇所もあって、眺めても読めないのが悔しいところでしたが、いくら見ても飽きない展示でした。
足を止めて見入ってしまったのが、アラビア語のコーラン写本。厚みも印象もずっしり。
梅の花を描いて文節ごとの区切りとしています。ところどころの赤い記号は発音の注意点を伝えています。そういえば仏教のお経にも節回しが記されているのを思い出しました。声明やコーランにおいて「文字」は、音を地上につなぐ役割をはたしているかのようです。
ムハンマドの啓示ははじめ口伝えで伝承されましたが、のちに書物にまとめられました。和歌についても同じことを考えたことがあるのですが、もともと発話してあらわされるものを、後世に文字にしたところに、音の視覚化という芸術的な魅力がおこるような気がします。
とても分厚い本ですが、これを暗誦することは、神に近づくことでもあったのでしょう。コーランとは神につながる数少ない手段のひとつだったのだろうと思います。
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イスラーム展とは別に、モリソン書庫や所蔵品展示も楽しめました。モリソン書庫にはソファーが置いてあって、ぼんやり座っている人とかいた。
モリソン書庫 モリソン博士の収集した東アジアに関する欧文の書籍・絵画・冊子
所蔵品展示室はイスラームから少し離れて、東洋文庫の名品を展示。
国宝「文選集注」は中国の詩文集が写本として伝わったもので、中世貴族の教養の書とされたのだそうです。命をかけて海を渡り、一字一句を丁寧に写した巻物を国に持ち帰る。そうして手に入れた最先端の知識は、また人の手で写しとられて広まっていきます。今とは異なる情報の重みを感じました。
教会で使用されていたと見られる、重厚な装丁の聖書もありました。武器になりそうな厚みがあります。また、パーリ語の聖典も展示。パーリ語は仏教が誕生した際にインドで使われていた言葉なのだそうです。ヤシの葉に鉄筆で文字を記しています。
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「知は力なり」という言葉を改めて知るような思いになりました。知識がどれだけアクセス困難なものだったのか。命に代えてでも後世に、あるいは多くの人に伝える価値があるものでした。聖典は知識の源泉であり、書写して広めることは、知識の水を分け与えるようなものだったのでしょう。
今と比べれば細々と行き交った知は、しかしそれらを渇望した人々によって、時に国や海を越え、信仰や言語の壁を越えて、遥か遠い地まで届けられました。そのような知に関わる人々の探究心と情熱が感じられる展示会でした。
今現在、中東地域を中心に不安定な情勢が続いています。異国への好奇心だけで関わるにはナイーブな問題になりつつあるように感じます。しかしそれでも異質な他者にどのように向き合えばいいのか。今いちど異文化との関わりの原点に引き戻されるような気持ちになりました。
今年は行きたい美術展やらたくさんあるので節約する。と思っていたのに、気がついたら併設のレストランで美味しいランチをいただいていました。おやっ。
おすすめ図書
今回の展示品には「バビロニア・タルムード」(ユダヤ教の聖典)もありました。
そのためか「サラエボ・ハガター」とそれを扱った小説のことを思い出しました。
ハガターはユダヤ教の過越祭で読む詩篇の書です。サラエボ・ハガターは19世紀末にユダヤ人によりサラエボ博物館に売却されたことで存在が知られました。14世紀ごろのスペインで作られたと考えられ、誰の手をどのように渡ってか、19世紀にオーストリア=ハンガリー帝国下のサラエボに届けられます。
この装飾写本は持ち主とともに、ヨーロッパのユダヤ人迫害の歴史を歩んできたと想像されます。
バルカン半島の西北に位置するボスニア・ヘルツェゴビナは、東西の文化が交差する地点でもあり、カトリックのほかイスラーム教徒も多く暮らしています。第二次大戦のナチスによる焚書、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で博物館が砲撃された際に、このユダヤ人の書物を守ったのは、ともにイスラーム教徒の学芸員だったといわれています。
その学芸員がユダヤ教への理解があったのか、普遍的な人類愛を持っている人だったのか。そうではなくても、その細密画が描かれた写本の歴史的な重みや美しさが、彼に異教徒の書物を守らせたのではないか、などと思っています。
いつのいつでもとは言い切れないけれど、民族や宗教、言語の壁を越えるものはあるのではないか。たとえ紛争のさなかであっても、そういう瞬間はありえるんじゃないか。そんなことを考えました。
古書鑑定士の女性と、ハガターの持ち主となった人々のストーリーが交差しながら描かれる。
レコンキスタ、異端審問、終焉の近づくオーストリア=ハンガリー帝国、パルチザン部隊の抵抗運動とナチスからの解放、そしてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ーー前後する時間軸と、複数の時代が舞台になるという複雑な構成で、読書メーターでは評価の低かった一冊。
歴史に自信ありという人はぜひ挑んでみてください。
*なお小説ではイスラーム教徒がユダヤ教の書物を戦火から守ったというエピソードを美化しておらず、そこに隣人どうしを引き裂く民族や宗教の複雑さを見ています。
関連情報
イランの古都バムの遺跡。バムの歴史的遺産に関する記録を収集しアーカイブ化しています。今回の展示品でもあります。
Governor's House and Watch Tower | Citadel of Bam, Iran - YouTube
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http://daimuran.blog.so-net.ne.jp/2010-04-09
- 東洋文庫ミュージアム MAブログ
翻訳されたコーランと翻訳者 - バルナバによる福音書 - Wikipedia
イスラーム教徒が記述したキリスト教起源解釈。16世紀ごろ。偽書との指摘も。ジョージ・セールがコーラン翻訳にあたり、この福音書に言及したことが注目のきっかけとなった。 - Kameno's Digital Photo Log: 宗派を越えた声明のコラボレーション
声明、その"古代インドやアジアの宇宙観に基づくその発声の特質や時間的空間性" - 東北大学中国語学文学論集 第4号(1999年11月30日)九條本『文選』の識語の検討
*展示に合わせて、コーラン(他表記「クルアーン」)、「イスラーム」(他表記「イスラム」)、「イスラーム教徒」(他表記「ムスリム」「イスラム教徒」)で表記統一しました。
*1:会期2015/1/10 - 4/12:展覧会情報は1/10に知って、1/31(土)に展示会に行きました。