英国の国立美術館ロンドン・ナショナル・ギャラリーを取材した180分!のドキュメンタリー映画。
つぎつぎに編まれていく美術に関する解説、評論、議論の言葉の波にのまれる3時間でした。
家で見るドキュメンタリー番組でも、気になるものだとパソコンを立ち上げてナレーション書き起こしをはじめる悪い癖があるのですが、しかしここはシアター内。そんなことはできずに頭の中にメモ。その結果、一言も聞きもらすまいと気を張って、すっかり疲れてしまったのでした。
美術館に関わる人たちや作品を楽しむ人、絵画にまつわるエピソードなど作中の情報量すごいので、そのひとつひとつを凝視するよりも、怒涛の言葉が自分の中をどんどん通り過ぎていくのを楽しむほうが、ちょうどいいのではないかと思います。
物語を見るちから
先日行ったホイッスラー展で、19世紀以降の画家たちが「絵画から物語を取り除く」ことを目指したという話がありましたが、改めて考えるとそれまでの絵画は、作品に宿る物語性が重要だったのでした。近世までについて言えば、絵画を見る力とは、物語を見る力なのかもしれないなと思いました。
美術館に出かけて、まずは好き嫌いで作品を見るだけでも、もちろん楽しめると思います。私も一次的には共感できるかどうかで見て、そこを土台に作品について思いをめぐらせます。この作品は好きではないけど、どうしてこんなに目立つ位置においてあるんだろう?とか。
絵を見るときに、美しいと思う作品もあれば、不安感、恐ろしさ、あるいは神々しさを覚えるものもあります。私たちがそう感じることは、ひとまず画家の思惑どおりなのです。
なぜ画家はこの絵を描いたのか。見る人の感情を引き出すために、どういう演出をしているのか。絵画の中にあるヒントを読み解いていくと、画家の心の中にある物語をいっそう深く味わえます。
今の時代は映画という娯楽がありますが、当時は絵画が物語を楽しむ娯楽のひとつでした。画家は監督であり演出家でもあります。人物をどう配置するか、どういう構図でどんな表情にするか。そういうことに意識的だったりする。
まずはひとりの鑑賞者であることから始まって、もう少しつこんだ絵画の見方をしたいと思ったときに大切になってくるのが、この「物語を見る力」なのではないかと。ルーベンス「サムソンとデリラ」やホルバイン「大使たち」のエピソードを聞きながら、そんなことを思いました。
美術館のバックヤード
美術館の運営にはいろんな人が携わっています。とくに興味を惹かれたのが、作品を調査、修復する人たち、それからライティングに関わる専門家たちの話でした。
作品を展示する際に、美術館では作品の調査と修復作業が行われます。その過程は慎重さが求められる繊細な作業であることはもちろんですが、そこで作品にまつわる新たな発見があったりします。
たとえば一枚の肖像画をX線分析にかけると、その下にはっきりと別の絵が浮かび上がってきたり。後世の修復家がニカワで処理を施して劣化させてしまうこともあれば、画家本人が色を和らげる目的で塗ったニカワまでも、現代の修復作業ですべて除去せざるを得ないケースもあります。
そういうバックヤードの話がとても面白かった。
照明が絵の細部まで照らし出す現在と違って、自然光しかなかった時代の話も興味深かったです。
当時の画家たちは、窓からの自然光や床の反射光が絵画にどのようにあたるかを計算して、絵の効果を考えたのだそうです。
窓から差し込む光に合わせてハイライトをつけたり、暗い聖堂内の祭壇画を浮かび上がらせるロウソクの灯りの効果だったり。そのおぼろな光の中で、絵画は今よりもずっと聖性をまとったものだったのではないか。だからこそ絵は神と人をつなぐチャネルとなりえたのではないか。
絵画を見ることは、その絵の描かれた時代そのものを味わうことでもあるのだなあと思いました。
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TX「美の巨人たち」は美術番組ながらミステリー仕立てです。絵画の謎解きの面白さを知ったおかげで美術館に行くのが楽しくなりました。はじめは番組に影響されすぎかな? と心配したのですが、最近ではそんなことないと思っています。絵画はそもそもミステリー性をもっているものなのです。
聖書の世界をあまり知らない日本人にはちょっと分が悪いかもしれない西洋絵画ですが、むしろだからこそ知っていく楽しみはあるのかも。
あと、美術館でデッサンをしている人がけっこういて楽しそうだった。日本だと難しいかな。家でやったほうがはかどると思うけど、生の作品にあたりながらデッサンするのは、作品からのインスピレーションを受けれそうでいいなあと思いました。