日々帳

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[考察]ホイッスラーと絵画の時間性

美術展の感想がいつも長くなるので、展示会感想とぐだぐだ書く雑感と分けることにしました。
ここはぐだぐだしている方の記事です。

美術展の感想はこちら

雑感

美のための美

ホイッスラーはアメリカに生まれ、英国で活躍した画家で、19世紀中頃におこった唯美主義運動の担い手でもあった。唯美主義が何かというと「美のための美」「芸術のための芸術」などとなり、"ただ"美のためにある芸術を目指そうとしたのだという。

「美のための美」という言葉が出てきたのには、それまでの絵画にとって、聖書をもとにした物語性や教訓が重要だったという背景がある。もったいぶったタイトルをつけなくても、ただそこにあるだけで美しいもの。唯美主義は、絵画から意味性を取り去ろうとしたのだった。

意味を捨て去って、そこに残るのは感覚的な美である。ホイッスラーは色と形の純粋な美を追求した。
ハーモニー、ノクターンなど音楽用語を作品名につけたのも、そういう気負いがあったからだ。音楽と絵画の間に彼は、調和の美という共通項を見ていたのだった。

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ノクターン:ソレント」1866年 | ギルクリース美術館 *図録より。キャプチャとトリミングで若干の歪みがあります。

音楽が音の詩であるように、絵画は視覚の詩である。

芸術はすべての不純物から独立しなければならない。目や耳の芸術的感覚に、本来芸術とは無関係な、信仰、愛、愛国心、好みといった感情と混同することなく訴えなければならない。
図録より(「The Red Rag」p126-128 / 1878. )


レアリスムとラファエル前派

21歳のとき、ホイッスラーは画家をめざしてパリへ渡った。それまでに陸軍士官学校を退学し、沿岸測地局に勤めるなど、将来の行く道を模索していたふしがある。鉄道技師だった父親について子供時代から海外へ渡ることもあったようだが、夢を追っての渡仏はおそらく一大決心だっただろう。

画家志望の青年を迎えた1855年のパリでは、万国博覧会が開催され、出展を拒否された画家クールベが会場近くで世界初となる個展を開いていた。クールベのこのときの目録の文章が、のちに「レアリスム宣言」と呼ばれることになる。

芸術の活気あふれるパリで、素描を学んだりアトリエに入ったりするうちに、ホイッスラーは画家のアンリ・ファンタン・ラトゥールと知り合い、彼の紹介でクールベと出会うのだった。

ホイッスラーが物語性をとりのぞいて「美のための美」を求めたことは、クールベの主張したレアリスムと繋がっている。レアリスムもまた、歴史や神話を美化して描くこれまでの絵画を批判して、現実にあるものをありのまま描こうとした。

クールベに出会った翌年にホイッスラーは、ロンドンへ移り住んでいる。

エドゥアール・マネやラファエル前派の画家たちと交流をもったり、パリで展示されたテムズ川エッチング集がボードレールに賞賛されたり、愛人ジョアンナをモデルにした「ホワイト・ガール」を描いて、マネの「草上の昼寝」とそろってサロン品評会に落選し、落選会で争論の的となったりした。

「ホワイト・ガール」はのちに「白のシンフォニー」と作品名を変えるが、この作品では、東洋の要素はまだ異国趣味なものである。むしろこのころには、当時のイギリスに遺跡の発掘などでおこった、古代ギリシャ美術への憧れが素地に見られる。

バルパライソからの帰国後、リヴァプール海運王レイランドの依頼で制作をすることが増えたホイッスラーは、その一方で、徐々に浮世絵からインスピレーションを得た作品を手がけるようになっていく。風景画の連作「ノクターン」を描き始めたのはこの頃である。
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左)「紫とバラ色:6つのマークのランゲ・ライゼン」1864年 | フィラデルフィア美術館
右)「白のシンフォニー No.2:小さなホワイトガール」1864年 | テート美術館 


浮世絵と時間の意識

19世紀ヨーロッパの画家たちは、浮世絵をはじめとした日本の美術工芸品に、表現の新たな可能性を見出した。

ホイッスラーのノクターンにも、クローズアップや誇張の構図がみられる。また、浮世絵の色づかいにも感激があったようである。色の繰り返しに調和を見出した彼は、ひとつの色相をもとに、階調の変化のみで表現した風景画を描いた。

刺繍糸のように一つの同じ色彩がいろいろな場所に現れるべきであると思う。そしてまた別の同じ色が、重要度に応じていろいろな場所に現れるべきであると思う。このようにして、全体が一つの調和したパターンをなす。このことを日本人がいかによく理解しているかをみてほしい。彼らはコントラストを求めようとしているのではなく、その反対であり、繰り返しを追求している。
Whistler's Lecture on Art 40

浮世絵から絵画の新たな可能性を見出したホイッスラーだったが、個人的には、このあたりの作品にみられる時間の意識に注目したい。

「嵐」という作品では、暴風雨の中を歩く男の姿が描かれている。横殴りの雨が無数の線で描かれる。こういった表現は西洋絵画であまり例がないように思える。浮世絵では歌川広重東海道五十三次」に雨を描いた作品がいくつかあって、そこでおなじみの表現である。

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左)「嵐」1861年 | 大英博物館 *図録より。/ 右)歌川広重東海道五十三次 45 庄野宿」1832年

雨を描くということには少なくともふたつの時間性が宿る。
ひとつは森羅万象を描くということであり、もうひとつは動きのあるものを抽象化するということである。刻一刻と変わる自然の瞬間を写し、また、水の落下という動きの意識を写す。

京都は二条城の障壁画に桜を描いたものがある。花は早春からやがて盛りを迎え、ついにははらはらと散っていく。ひとつの作品に時間の推移が描かれている。森羅万象を描くことは、時のうつろいを描くことそのものであった。

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二条城 二の丸御殿 黒書院 二の間「桜花雉子図」狩野尚信

モネをはじめとした印象派の画家たちが、やがてうつろいゆく一瞬の光を描くことに関心を注いだのは、日本美術がもつ時間意識の影響があるのではないかと、個人的には思うのである。

ホイッスラーの「ノクターン」シリーズには、花火を描いた作品がふたつある。そこにはまばたきの間に消えてしまう、瞬間の美が描かれている。打ち上げられた花火が漆黒にぱらぱらと散る。上昇と下降の交錯。

こうして書き連ねてみるとホイッスラーの作品には、その後の抽象主義絵画を予感させるものがある。

色彩や構図の調和から美を引き出そうとしたホイッスラーは、絵画を理論的にとらえようとしていたのではないだろうか。音楽の言葉で絵画を説明しようと試みたのは、音楽とおなじ構造の美を、絵画にも見ていたからかもしれない。

そうして絵画の世界に、抽象化した「動き」の表現を取り入れたという点でも彼はまた、後世の表現に先んじていたのだった。

これらの作品は、この画家だけが有しているものではないが、この画家が最も明確に、そして有能に作品化した理論を図化している。すなわち、絵画は音楽にきわめて似たものであり、絵画において色彩は音楽における秩序だった音のように用いることができ、またそのように用いられなければならない。
Whistler's Lecture on Art 12
《Nocturne: Blue and Silver-Chelsea》《Variations in Violet and Green》について『タイムズ』誌の評

すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる
Whistler's Lecture on Art 12
ウォルター・ペイター『ルネサンス』(1873年)


ホイッスラーについて

ところでホイッスラー展にいくと、あまり気にかけなくても、彼が偏屈ながらダンディなモテ男だったらしいということが伝わってくる。そんな美術展も珍しいんじゃないか。

女性に困らなかった(婚外子もいる)というホイッスラーが結婚したのは54歳のとき。妻となったビアトリクスも画家であり、ふたりの結婚生活は幸せなものだったという。結婚から8年後に病に伏した妻に先立たれると、深く傷心し、情緒不安定になったほどだった。

自意識の強いホイッスラーだったが、実際には繊細なひとだったのではないかと思ったりもする。夫人とのエピソードもそうだけど、彼が描いた作品が意外にも穏やかな風景画が多いことにも、そう感じさせられる。

古典主義に傾倒した時期もあったが、彼にとっての「ただ美のために」に表される「美」とは、美麗なものばかりではなく、彼が音楽用語にその表現を頼ったように、それはのちに抽象主義につながるような、感覚の美だった。

ホイッスラーは色彩や音といった感覚がとらえる構造的な美を、いち早くとらえた画家だったのではないかと思う。そこには芸術に対する純粋な感動があり、喜びがある。あれだけ滲み出ていた自意識が、ふと影をひそめるのである。

「黒と金色のノクターン:落下する花火」は、批評家ジョン・ラスキンの批判をめぐって裁判まで起こしている。結果はホイッスラーの勝利であったが、賠償額は少額で、多額の訴訟費用のためにホイッスラーは破産してしまうのだった。

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右)「ノクターン:青と金色-オールド・バターシー・ブリッジ」1872-75年頃 | テート美術館
左)「黒と金色のノクターン:落下する花火」1875年 | デトロイト美術館

ちかく英国の画家ターナーの映画が公開されるが、もし私がホイッスラーの映画を作るなら(!)、ラスキン裁判にひもづけてこのシーンは描きたい!というエピソードがある。ホイッスラーが外でスケッチをしている時に、レンガが落ちるのを見て、紙の上に一本の線を引いたという話。

ホイッスラーというひとりの画家の身の内で、ものの動きを描きとどめるという意識が鮮明になったとき、西洋絵画はのちの抽象画につながる「動きの抽象化」を獲得したのであった。(という演出でつくりたいです)

抽象化された動きとその意識。それをさらに推し進めて描いた「黒と金色のノクターン:落下する花火」の絵は、批評家ラスキンに酷評される。それまでは批評されることを面白がっていたホイッスラーだったが、この時は引かなかった。それは絵画の新たな可能性のための戦いだったからである。

なんてね。

じっさいにはラスキンに作品に高値がついたことを批判されたので、これを黙認すれば、今後の絵画の金銭的価値に大きな影響が出ると考えたのかもしれない、という話もある。

ホイッスラー展、エッチングや水彩画が多くて、大作が少ないっていう声もあるみたいでしたが、ホイッスラーどんな画家?っていう人は楽しめるんじゃないかなあ。と思いました。

資料など

図録とホイッスラーに関するテキストサイト(下記参考)をもとに記事作成しました。画像は図録およびwikipediaクリエイティブ・コモンズ

「絵画と音楽」論と「動きの意識」論は、私の推測です。「音楽と絵画」論は資料などもあり、解釈の差はあるにせよ大きく外れてはないと思いますが、「動きの意識」論は、今のところたぶん私が言っているだけなので、解釈のひとつとして見ていただければと。

ホイッスラーについてもっと詳しく読めるテキスト。

裁判の経緯を記したあたりは当時のヨーロッパ(イギリス)の世論がかいま見えて面白かったです。
ラスキンはホイッスラーを「気取り屋」と称し、その理由に音楽用語を作品名につけているからと記したのだとか。「作品名に音楽用語」は、あいつ気取りやがって!みたいな見方されてたんですね。

今回の記事と関わりのあるところ。

裁判のエピソード以外にも唯美主義に数えられるオスカー・ワイルドやフランス印象派との関係など、読み込んでしまう記事でした。

なお、二条城の障壁画の詳細はこちら

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*なおホイッスラーは裁判で、ノクターンは「線、形、色彩のアレンジメント」という意味であり、音楽と結びつけるものではないとも説明しています。私は、ホイッスラーは絵画において線や色彩の要素を理論的に組み合わせるという点で、音楽に類似性を見て、音楽用語を用いたのだと思いますが、一方で、音楽を絵画で再現しようとしたわけではない、とも思います。音楽をインスピレーションにして絵画を描くというところまで到達したのが、のちの世代のクレーやカンディンスキーなのかなと思いますが。