日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

[感想]山種美術館「水の音―広重から千住博まで―」

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折しも曇りがちの空が、時おり思い出したように小雨を降らせるなか、山種美術館の「水の音」展に行ってきた。

今回は山種美術館所蔵の日本画を中心に、「水の音」を感じられる作品を展示したもの。
酷暑の続いた今夏にはうってつけ。ちょっと涼しくなった今日この頃ではあるけれど。

いつものように気に入った作品いくつかの感想を。

ちなみに絵はがきも図録も手に入らなかったので、一部、記憶をたよりに粗描したイラストを載せています。
 

山元春挙「清流」

竹内栖鳳とともに近代京都画壇を代表する画家。円山四条派の伝統的な写生をもとに、洋画や写真の写実性をとりいれた。
上方の岩影は日本の伝統的写生、勢いをもって流れる豊かな水量の川は、西洋画の写実性で描かれている。季節は晩春だろうか。雪が融けて川はいよいよ勢いづいて流れ、濁りのない澄んだ水が青く色づく。いち羽の鳥が川風をきって颯爽とゆく。
展示室はいってすぐの作品なのだけど、展示会のなかではかなり好きな一点。

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奥田元宗「奥入瀬(秋)」

秋の木々の間をぬける水流。轟音はやがてせせらぎに変わる。その水流にかぶさるしたたるような紅葉の赤。この作品にはふたつの音がある。流れる水の音と、色づく紅葉の色彩の奏。ごおっという水の音と、もっと高みでさざめく赤。
ふたつの音に耳をそばだてていると、日々の雑音をひととき忘れられるような気持ちになる。

 

千住博ウォーターフォール

絵の前に立つと滝そのものを眺めているようで圧倒される。これは絵の具の滝なのだけど、滝の絵でもある。花も種も互いを内包する。という言葉が印象にのこった。
激しく流れる滝の表現は、エアブラシを使っているとのこと。滝の糸を細かに描く泥臭いほうが個人的には好きなのだけど、滝という対象に絞り込んで描く構成は、自然主義的で、表現主義的でもあり、日本画の流れを正しく汲んでいる気がする。

 

川合玉堂「水声雨声」

横山大観らとともに日本美術院に参加した川合玉堂は、明治〜昭和の日本画壇を支えたひとり。
人々の住まう里山の風景を、品格ある画風で描いた。
水墨で描いた雨の風景。ぬれそぼる木々は白く煙る雨に霞む。水車の水が激しく流れる。ざあっと降る雨と、どっと流れる水。ふたつの水の音のなかを、二人の農婦が歩いている。
絵を眺めて情景を瞼にやきつけて、目を閉じる。そうすると体の内側に、ざあっ、どおっという水の音が響いてくる。
たくさんの作品の中で、地味だけど、この作品がいちばん好きかもと思った。

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小茂田青樹「春雨」

今村紫紅らとともに赤曜会を結束、同じ画塾から出た速水御舟とは良きライバルだったそう。
春の雨が海棠の花をしっとりと濡らす。絹地に描かれた線は繊細でつややか。花の紅色は水で滲んでいる。雨と花というとりあわせが妖艶で、きっとそこを狙って描いているのだろうなと思った。
花を描くのではなく雨を描くのでもなく、そこにある艶美さを描く。主題の定め方も、どことなく速水御舟に似てるなあと思ってしまった。


 

その他

山本丘人「流転之詩」
渓流は軽井沢の素描、構成は能楽の背景だそう。デフォルメの構成を貫く写実性の川というとりあわせ。

杉山寧「潤」
岩絵具を丁寧に重ねた、柔らかな色彩で描く滝。ぼんやりしてるなあと思ったけれど、早朝の簿明に浮かび上がる姿のようでもある。そう見ると、薄暗がりの向こうから響く轟と水の匂いが感じられる、幽玄、静寂の滝なのである。

牛尾武「晨響(銀河と流星の滝)」
北海道、層雲峡の二つの滝、銀河・流星を描いた作品。細かな線画にうっすら色彩を配している。険しく切り立った岩肌に朝陽がかかり、山の翳りに二本の滝が流れている。
絵のタッチが今の若い人にも好まれそうだなあと思ったら、わりと最近まで活躍されていた方だったようで、ブログなども読み込んでしまった。他の絵もとても良くて、制作過程など淡々とつづっている。展示会とかあれば行ってみたいなと思った。

牛尾 武のブログ

小堀鞆音 「那須宗隆射扇図」
日本美術院創立にも加わった小堀鞆音は、大和絵を研究し、歴史人物画とくに武者絵を得意とした。
平家物語の名場面「扇の的」を描いたこの作品では、浜に打ち寄せる荒い波と沖の静かな波を、文様の波で描き分けている。

小野竹喬「沖の灯火」
若くはセザンヌなどの後期印象派に影響を受けたが、渡欧後は南画など東洋画に回帰した。また大和絵の象徴的であざやかな配色の表現へと画風を変え、のちに水墨画に傾いた。「沖の灯火」は最晩年に描かれた作品で、詩情豊かな色彩の美しさや平面的な構図、後期印象派を思わせる雰囲気など、画家の歩んだすべてがこめられているような気がした。


 

まとめ

山種美術館の作品は明治以降の日本画が多いので、西洋画に出会ったのちの日本の画家たちが、日本人として何を描いて行くのかを模索した歴史を、はからずも感じてしまう。
日本の伝統的絵画には陰影法も遠近法もない。けれど個人的には、陰影法を取り入れた日本画を見ると、とたんに精彩をかいてしまうように感じられる。
今回の展示でいえば、小堀鞆音のような澄んだ色彩のほうが、いっそう潔いくて好ましい。
でもこれは個人的な見解。

あと、いまさら気づいたのだけど、杉山寧、奥田元宋、東山魁夷のメチエールの手法も、「線に頼らない」「陰影を表現する」という、伝統的な日本絵画にない表現を、西洋画の文脈によらずにどう獲得していくかを模索した末のものなのだろうかと思った。

横山大観も模索の道にあって、琳派の画風にならうことで、西洋に劣らない表現の可能性を見いだした。杉山寧や奥田元宋、東山魁夷も、日本の伝統的絵画のデフォルメの構成というところを踏襲している気がする。画面のなかに世界を再構成するという点で、伝統的な日本絵画は表現主義に通じるし、そこに可能性を求めたほうが、日本美術のルーツを引きついでいけるように思う。

西洋画が日本に入ってきたときに、日本の伝統的な絵画は、西洋より劣っていると考えられた。そのコンプレックスが、近代以降日本の絵画に変化をせまったのではないかと考えてきた。けれども、今回の展示でいくつかの作品を見て、案外それだけでもないのかもなと思った。

明治以降、海外の価値観が入ってきたときに、日本人は「私」という概念を獲得したように思う。この自我意識のめざめは、よく言われる近代文学だけではなく、美術の分野にもあったのではないか。
強い自我意識のものもあれば、「私」という目線で情緒的に描く優しい作品もある。
たとえば奥村土牛のいくつかの作品は、雄大で普遍の風景というよりは、個人の心象で見つめた素朴な風景を描いているように感じられる。

かつて日本絵画の新しい道を拓いていこうとしたとき、苦悩ばかりではなく、ポジティブな思いもあったのではないかと思った。