日々帳

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[感想]東京国立博物館 特別展「栄西と建仁寺」:海北友松 ほか

東京国立博物館の特別展「栄西建仁寺展」では、臨済宗を日本に広めた栄西の没後800年にちなんで、栄西建仁寺にまつわる品々を公開する。
自分用のメモもかねてるので、やたら説明的だけど、一応感想を。

海北友松 武人の絵画

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「龍雲図」海北友松筆(京都・建仁寺蔵)

建仁寺の玄関に近い「礼之間」に両面向かい合うようにかけられた『雲龍図』。
作者の海北友松は安土桃山時代の絵師で、近江の武士の家に生まれ、東福寺に修行した。
このとき狩野派を学ぶ。また、中国宋元画のとくに梁楷に影響を受け、簡素で鋭い線描の水墨画を多く描いた。

海北友松の作品には、狩野派を受け継ぐ*1華やかな屏風絵もあるけれど、個人的には水墨画の方が好きだなあと思った。

海北友松の『花鳥画』は、いつか見た宮本武蔵の、枯れ木に止まる鳥の絵を思わせる。
宮本武蔵も武人ながら絵を描く人だったのだけど、描く対象をシンプルに切り詰めながら、一筋の線に気迫がこもる感じは、海北友松の水墨画によく似ている。
二人とも同じように武人であったからかと思ったけれど、実際に宮本武蔵は海北友松の影響を指摘されているらしい。

宋から禅と茶を持ち帰った栄西もそうだけど、この頃の教養人の間には大陸文化への憧れを感じる。友松もまたそう。けれども余白を味わい一筆の気迫を味わうその画風は、画家自身の内面深くに結びついてもいるように思える。

空気そのものを描いた霞ただよう茫漠とした余白に、画面を引き締めるように山際を描く。
余白への美意識は、画を具象から抽象へと変化させる。
それはこの後の日本の美術に、独自の感性として引き継がれていくもののように思えた。

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「山水図屏風」海北友松筆(東京国立博物館

それというのも、この等伯の時期、今日我々が「日本的」とみる文化的特徴が可視化するのであって、それ以前にはなかった特徴なのである。唐物崇拝の顕著であった中世は、中国渡来文物が文化の牽引車であった。我々が今日に連続する「日本的」とみる文化的特徴は、たかだか4世紀ていどの歴史しかない。
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今回いろいろ他の方の文章を読んでみて、とても面白かったので、参考まで。
海北友松との類似、長谷川等伯との対比から画人宮本武蔵を浮かび上がらせている。
長谷川等伯の「松林図屏風」を”日本的な感性の誕生”と見るあたりなど、個人的には海北友松の幾つかの作品にも同じことを感じたのだけど。

桃山時代というのは、日本の近世が始まる時期にあって、中国から様々な文化が入ってきながらも、和様に転じていく過渡期だったのかもしれないと思った。

社寺参詣曼荼羅と京の冥界事情

お盆の精霊迎えの様子を描いた「珍皇寺参詣曼荼羅」。六道珍皇寺は、古くからの葬送地である鳥辺野の入り口に位置したため、現世と冥界の境界「六道の辻」と呼ばれたのだそう。境内の左上には閻魔様の姿、左上には冥界の入り口の井戸が描かれている。

井戸の先の世界、冥界を描いたのが「熊野観心十界曼荼羅」。生を受けてから老いるまでを四季の移ろいとともに表し、その先に待っている地獄の責苦と供養による救済を描く。
仏教の説話画を往来にかけて解説を行う「絵解き」を行った熊野比丘尼たちが使ったものではないかと考えられているようだ。

京都の市内は、休日に自転車で一周できるくらいの広さなのだけど、そこに詰まっている歴史は濃い。風水の思想はあったにしても、必要性の積み重ねで出来上がった都市デザインとしてとらえると、清浄と不浄とをどう区分けしていたのかなど、都市空間と宗教観の相互の反映が見えるようで興味深い。


六道珍皇寺」「熊野観心十界曼荼羅」について

「社寺参詣曼荼羅」について調べていて、面白かった記事


栄西とお茶

生涯で二度入宋した栄西は、禅宗の他に喫茶の習慣をも日本へ伝えた。
当時、茶を飲む文化は日本にもあったが、それは茶葉を煮出したもの。乾燥させた葉をすり潰し粉にして飲む抹茶法を、日本に持ち帰ったのが栄西だった。
抹茶は精神修養として禅宗の教えとともに広まった。後の安土桃山時代千利休によって完成させられた「茶道」は、日本独自の流儀を取り入れ、現在に続いている。

栄西のその生涯は困難も多かった。
栄西が宋より持ち帰った禅宗の布教活動は、比叡山延暦寺天台宗から強い反発を受ける。
そこで栄西は京都を避け、渡来した宋人たちの居留地だった博多百堂の跡地に日本初の禅寺を開創した。
既存勢力からの風当たりもあって、他の宗派との調和を試みながら布教を続けている。
北条政子が夫・頼朝のために建立した寿福寺の住職として鎌倉に招いたことから、栄西源頼家の後ろ盾を得ることに成功した。
京都に念願の禅寺建仁寺を建立したのは、その二年後の62歳のことである。

栄西のことを調べると、鎌倉幕府の庇護を取り付けたあたり強か、という意見も出てたりする。
当然ながら展示ではそんなこと感じなかったけれど。ただ、既存宗派の反発を避けるために他の宗派に対して柔軟であろうとし続けたあたり、”広めていく”というところに意志の強さがあった人なのかなと思った。

禅宗武家に支持されたのには、精神修養という気風が合っていたこともあるだろう。
一方で、朝廷と幕府の権力の対立で、鎌倉幕府が宗教を必要とした、そのため臨済宗を支持したのだという説もあって、そういった背景も面白いなあと思った。

関連URL

*1:2017.5.12 追記:華やかな屏風絵(琴棋書画図屏風?)というのは晩年のやまと絵を描くようになった頃のものかもしれない。海北友松は狩野派に学んだ若い頃は、"鋭い線描の水墨画"だったけれど、独自の画風を切り拓いてからは、余白を活かした水墨画を描くようになる。しかし、時代が豊臣家から徳川家と移ったあとは、武家から公家へと後援が変わり、その時代には雅やかなやまと絵風のものにも挑戦した。