日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

[本の感想]「動きが生命をつくる」「『つながり』の進化生物学」

いのちを作るもの

「動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ」と「『つながり』の進化生物学」という本には共通点があって、どちらの著者も、2013年のニコニコ超会議の研究100連発の壇上で発表されていた。そしてどちらにも「生命とは」「心とは」という目には見えないものに近づこうという試みがある。一方は無機質なものから、他方は動物やその他の生き物から、人という存在を明らかにしようとしていて、同じ問題に対して異なるアプローチで挑んでいる。

その道筋で同じテーマに触れているのも面白い。絶対音感共感覚や、自閉症、自由意思・意識の存在などである。その他にもさまざまな研究やエピソードを交えながら「人とは何か」に挑んでいくが、ここでは私の印象に残った共感覚自閉症、自由意思などに絡めて雑感をまとめようと思う。


絶対音感共感覚

かつて人類は絶対音感を持っていたのだという。しかし、進化とともに絶対音感は相対音感へと変化していく。それには、相対で音をとらえる方が、メリットが高かったからだと「つながりの進化生物学」で著者の岡ノ谷さんは推測する。

母音を作る二つの音(フォルマント)の比率が母音の特性を決めている。ふたりの人物が「あ」と発音する時、音の高さは異なるが、フォルマントの比率は変わらない。そのために、音程が違っても、「あ」の発声を同じ音として認識できるようになった。このことは発声から言葉を生み出し、やがて記号化させることを可能にした。*1

ビーグル(ロボット)に判断の基準を与えていくことで生命らしさが現れてくる過程を見ようとした実験では、光センサーと音センサーといったある二つのセンサー(感覚)が刺激を受けた時に、センサー間の抵抗を下げると、一方の刺激にもう一方も反応するようになり、ここに共感覚的な現象が生まれていることが分かる。*2

音は音でしかなく、像は像でしかないというのではない。感覚は相互に影響しあって、外界を柔軟に認識するようになるのである。

少数の人に与えられた稀有な能力と受け取られがちな絶対音感共感覚だが、絶対音感とはコミュニケーションに効率的ではないために退化していった人間の古い能力のひとつで、共感覚とは、認識の柔軟性のために生まれる感覚の相互作用が、古い能力である絶対音感とあいまって生まれるものといえるかもしれない。

自閉症と心の理論

他人の振る舞いを見て、相手の意図や心理状態を推測する機能を”心の理論”と言う。私たちは他者を観察しながら、相手の行動や要求を予測するようになる。

心の理論 - Wikipedia

また、他者が自己を映す鏡であることは、ミラーニューロンによって説明できるかも知れない。
ミラーニューロンとは誰かが怪我をしたのを見た時、自分も思わず顔をしかめてしまうような、他者の行動に反応する神経細胞のことである。
自閉症について、心の理論が未発達なことや、ミラーニューロンの不活発さとの関連性が指摘されている。

青い服を着た人形の写真を撮り、現像している間に人形の服を緑に着替えさせる。現像した写真を見せる前に、子供たちに写真の中の人形の服は何色かを尋ねると、目の前にいる人形が着ている服の色(緑)を答える子供たちと違って、自閉症の子供たちは答えをほとんど間違えることはないのだという。*3

サヴァン症候群で知られる知的障害者が持つ天才的な能力は、人が進化の過程で選択してきた「曖昧さ」を欠いたために現れるものなのかも知れない。特に言語には、曖昧さがその発展を促しただろうとの解釈をうながす痕跡が残されている。

「『つながり』の進化生物学」ではさらに、他人の心に気づくことが自分の心を知ることだとするなら、他人の心に気づきにくい自閉症の人には心がないというのだろうか、という高校生の素朴な疑問につきあたる。
筆者は、自閉症の科学者テンプル・グランディンの「自分とともに自分の考えも消えてしまうと思いたくない」という言葉を紹介する。彼女は自閉症に悩みながらも、だからこそ、この問題に取り組んでいる。
相互関係が必要ない生物なら心は必要ないかも知れないが、心を持つように進化してきた人間は、たとえ無人島で育っても心を持つだろう。*4

自由意思・意識

かつて人と動物の違いは「精神があるかどうか」だと思われていた、という記事を読んだことがある。
”心”はどこにあるのかと考えると、そもそも物質的に存在はしていないのではとも思ってしまうが、精神はどうだろうか。感覚器官で受けとった刺激への反応を脳で判断しているとしたら、やはり脳にあると言えるだろうか。刺激に対する反応なら他の生物にもある。動物と人とを隔てているものは何だろう。
その手がかりとして、考察は意識(自己認識)や自由意思の存在へと辿り着く。

「動きが生命をつくる」では、結びに自由意思の問題をとりあげている。
リベットという脳生理学者は、自由意思の存在証明をしようとして、それを否定する結果を出してしまった。神経生理学は自由意志を証明できないが、力学系やロボットシュミレーションもまた自由意志を構成できずにいる。にも関わらず私たちが自由意思を感じるためには、システムの中でシステムがシュミレートされるという構造が必要になる。*5

意識とは何かという問いかけに、岡ノ谷さんは高校生たちとの対話から「自分が自分であると知っていること」という答えを導き出す。しかし他人に意識があることを知ることはできるのか。たとえば宇宙人が現れて「あなたの周りはあなた以外みんなロボットだ」と言われたら、そうでないことを証明することはできるだろうか。*6この考えても答えがでない問題に、デカルトは「われ思う故に、われあり」という言葉を残した。
哲学的ゾンビ問題」とは、物理的な反応は普通の人間と変わらないが、意識を持っていない人間を仮定した思考実験のことである。しかし、実際の私たちが、物理的な反応のみで行動しているのだとしても、そうでないことを証明できる術はなく、またそうであっても、適応価(ある個体がどのくらい生き残り、子孫を残すかという適応度の指標)に影響はない。
そこで仮に私たちが単に物理的な反応をもつに過ぎないと考えてみるのはどうだろうか。他者の行動や心理を予測する「心の理論」、そして他者の行動を自分に映し見る「ミラーニューロン」という適応価により、自意識が作られ、心が生まれるようになったのではないだろうか。*7

機械と人と動物 まとめ

絶対音感共感覚の例のように、私たちは曖昧さを容認することによって、人間らしさを手に入れてきたのではないか。
自閉症の、社会生活に困難は生じるけれど、ある能力は一般の人より優れているというケースは、そのことをより示しているように思える。私たちは、正確さよりも誤認識の可能性がある方を選びながら、社会性を発達させてきたのかも知れない。

以前BSで、動物と人間の違いが何であるか推論し、検証する番組があった。二本足で歩ける、道具をつかう、言語をつかう、計画をたてる。どれも実は動物にも見ることができる。オラウータンは木の枝を使って蟻を釣るだけでなく、その木の枝を事前に用意して狩りに出かけるのだ。
先に引用した、動物に精神がないという仮定についてふれると、精神が自意識すなわち自己を認識する能力に基づくのなら、ゾウやブタにも精神はあると考えられる。彼らは鏡に映った自分の姿を見て、それが自身であることに気づくことができる。

言語についてももちろん、オウムやチンパンジーなどの知能の高い動物は、人間の言葉を理解し、数字や文字を学習することができる。しかし動物たちに「AならばB」は理解できても、そこから推論して「BならばA」を導き出すことはできない。
「月は丸い」が分かっても、「丸いものは月」とは理解しないのである。しかしこの概念の入れ替えは、厳密に言えば間違いである。「テロリストがイスラム教徒」は正確だったとしても、「イスラム教徒はテロリスト」ではないのだが、しかし人間は”間違った推論をする”能力で、言語を獲得してきたのである。*8

思うに、動物と人間の違いは、信仰を持つかどうかではないか。信仰をもつということは、根底にこの「誤った推論」が潜んでいるように思う。そのためにわたしたちは想像力をもち、文化をもち、信仰をもつようになったのではないだろうか。

「動きが生命をつくる」では、この"認識の不確かさ"を、一環した主題においているように感じる。
マイクロスリップとは「微小の錯誤」と訳することができ、意思と行為に起こるわずかなズレのことを言う。実験的には一分間に一度出現する。この行為の揺らぎ(躊躇)が、人の認知に関わっていると考えられるのだという。*9
ビーグルに判断基準を与えていく実験では、14段階目にして、気まぐれさを与えられる。コイン投げかカオスを作り出す回路かいずれにしても、合理性に従わない「揺らぎ」ある判断が、より生命らしさを生むと考えられるのである。

矛盾や錯誤、誤りを許容しながら、柔軟に外界をとらえる能力が、機械と動物に一線をおく、人間らしさであるかもしれない。
そう考えると、あらゆる文化や歴史や信仰に見る人間の業の深さが、より宿命的なものとして感じられるような気もする。

絶対性から相対性

一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。

人間とは何か、人はなぜ生まれたのか。そういった疑問への答えは近年にいたって、考察の軸を転換させているように思う。
上記ダイアリーの文章では、その思考の転換がちょうど上手く説明されていると思う。
「言葉には定められた『意味』がある」という考えには、言葉の向こう側に絶対的な意味があると捉えていただろうことが伺える。しかし後になると、言語においての意味やルールは、他者とのやり取りによってできあがってくるのだと気づく。

心とは何か、という問いに、「『つながり』の進化生物学」では、心とは初めから与えられているものではなく、他者とのやりとりの中で生まれてきたのではないかという答えを提案する。また、「動きが生命をつくる」では、タイトルがその答えになっているように、生命とは何か、という問いかけに対して、揺らぎから起こる動きが、やがて生命となったのではないかと考える。
世界をとらえようと試みる時、私たちは、俯瞰でそれを知るのではなく、動きながら、ときに障害物にぶつかるなどして、世界を認知していく。

人とは、心とは、生命とは、あるいは神とは何かという哲学的な問いに、かつて私たちは、絶対的な答えがあるのだと考えていた。けれどもこれらは、実際には外界や他者に交わることで相対的に獲得してきたものではないか。
私たちは錯誤と誤認の許容によって発展し、相対性によって自らの存在を意識の中に浮かび上がらせてきたのかもしれない。

追記:

言語についても、ふたつの本でも重要なテーマのひとつに据えているけど、私自身もう少し考察を深めたいことと、これから読む人もいるだろうと思って、ふれないようにしました。自分用という思いもあって長くまとめてしまったけれど、実際にはもっといろんなエピソードや考察が載っているので、興味のある人は一読をおすすめします。

*1:「『つながり』の進化生物学」「2章 はじまりは、「歌」だった」 絶対音感から相対音感へ 148P

*2:『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』第4章「ブライテンベルグ再解釈」ブライテンベルグの階層 76P

*3:『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』第6章「コミュニケーション」ジョイントアテンション・心の理論・言語 149P

*4:「『つながり』の進化生物学」「4章 つながるために、思考するために」 コミュニケーションがなければ、心はなかったかもしれない 251P

*5:『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』第8章「アート」7 脳が作る時間発展・9 シュミュラクロン 219・225P

*6:この錯覚が過剰になるとカプグラ症候群という精神疾患の病名がつく。

*7:「『つながり』の進化生物学」「4章 つながるために、思考するために」隣の人の意識は証明できない〜コミュニケーションがなければ、心はなかったかもしれない 227〜251P

*8:「『つながり』の進化生物学」「2章 はじまりは、「歌」だった」 「誤った推論」のおかげで、言葉がつくられた 135P

*9:『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』第5章「ダイナミカルなカテゴリー」6 行為のすべり:マイクロスリップ 113P