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日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

年末の風物詩の時代劇

時代劇、忠臣蔵といえば年末の風物詩であるが、時代劇を見たい父と見たくない母との静かな抗争もまた、年の瀬、我が家の風物詩であった。
おかげで忠臣蔵にふれずに育ったのだけど、BSで「高橋英樹のおもしろ歴史授業 忠臣蔵スペシャル」というのをやっていたので、なんとなく録画してみたら、けっこう面白かった。

ストーリーを知っている人も多いだろうけど、自分用にもなるので一応かんたんに書いてみる。

京からの院使(上皇からの使者)が江戸城に下向するにあたって、饗応役のひとりに赤穂藩の藩主、浅野長矩に、その指南役に吉良義央(上野介)があてられた。院使一行が江戸を訪れ、明日には京に帰るという3月14日、江戸城の大廊下で、浅野が吉良へと斬りつける事件が起こる。
この一件は両成敗とならず、浅野は即日切腹、さらに御家取り潰し、一方の吉良はお咎めなしとなった。
報せを受けた赤穂藩の家中たちは、ろう城抗戦派と、懇願して御家再興を望む開城派に分かれて対立する。家老大石良雄(内蔵助)は、はじめ開城派だったが、抗戦派へ理解を見せ、一同殉死して御家再興を訴える方へ意見をまとめていく。この時、切腹に同意した藩士に血判を出させ、義盟を結んでいる。だがついには吉良を討つ前提で開城となった。
開城後山科へ居を移した大石良雄は、京で遊びほうけてみせながら、一方で御家再興を嘆願した。しかし幕府はこれを拒否。大石も急進派と方向をひとつにして、吉良屋敷への討ち入りを決意するのだった。
大石は義盟誓紙をひとりひとりに返し、返還を拒んだ者だけに仇討ちを伝えた。改めて義盟を結んだ者で江戸へと入り、潜伏して吉良邸の様子を調べ、討ち入りの日を念入りにさぐった。この期間にも脱盟者は増え、討ち入りまでに同志は47名となった。
元禄15年12月14日、松の廊下の刃傷事件から1年9ヶ月が経ったこの日に、赤穂浪士47名は吉良邸に討ち入った。半刻ほどで屋敷を制圧し、さらに半刻後に炭小屋に隠れていた絹小袖の老人を斬る。この老人が吉良義央であった。
47名の赤穂浪士はその足で浅野長矩の菩提寺、泉岳寺へ向かい、墓前に首級を供えて仇討ちを報告した。
この事件に将軍綱吉は感銘し助命に傾いたと言われるが、「時に死を与えることも情けとなる」という進言にうなずき、47人へ切腹を命じた。
 
参考 : 元禄赤穂事件 - Wikipedia

かんたんじゃなかった。

こぼれ話をすると、なぜ浅野は吉良を斬りつけたのか、ということについては、はっきりしたことは分かっていない。赤穂の塩で知られるように、塩の収入で利益を上げていた浅野へ、名門ながら恵まれた暮らしのできない吉良が賄賂を求めたが、浅野はこれを断った。このことから、わざと頓珍漢な指南をして、饗応役の浅野に恥をかかせることが度々あったらしい。その険悪な関係の中で、何かしら事があったのかもしれないと言われているようだ。

また、赤穂浪士たちが仇討ちを決意し、民衆たちがこれに同情的だったのにも、理由がある。「喧嘩両成敗」という考え方は、争いごとの両者を、どちらが悪いなどと追求せずに平等に処罰することで、江戸時代にも慣習法として残っていた。浅野だけが重い罰を受け、大石側がお咎めなしだったことが、その鉄則に反していたために、お上が裁かない罰は自らの手で裁くと、赤穂浪士たちは立ち上がったのだった。

 
番組は、元禄の赤穂事件は当時の幕府が必要とした演出(セレモニー)だったのではないか、という説を軸に展開される。その詳細は番組の再放送など見てもらうことにして、私見だけ述べると、幕府に筋書きを描いた人がいたとまで言わなくても、見てみぬふりをした、ということはあながち突拍子でもないように思った。
殿中での刃傷騒動は将軍綱吉の怒りにふれ、即日切腹を命じなければいけなくなったが、本来ならやはり両成敗となるところ。全体の筋をとおすことを公儀が担えなかった代わり、赤穂浪士自ら動くことに整合性を委ねたのだろうか。
もうひとつ別の見方をすれば、殿中で刀を抜くということが武士道に反するのなら、不平等な判決に家臣らが主君の仇を討つというのもまた、武士道のかたちなのである。
現代からみてそれが理にかなっているかどうかは別として、江戸時代という空間が、明文化されていないある種の倫理観によって成り立っていたことを感じさせて、興味深く感じた。

古代ローマでも主君と臣下の絆は強固なものが求められた。紀元前49年のローマ内戦で、カエサルの盟友ラビエヌスは、対立するポンペイウス一族の被保護者だったために、彼についてカエサルの敵となった。その信義にもとづいた決断は、非難されるよりむしろ容認される暗黙の合意であったとの見方がある。*1
日本においてもこれに近く、藩主浅野に忠を尽くすということは、例え公儀の判断に逆らうことであっても、それは人々の心を納得させるものであった、ということなのかもしれない。
その世界では、公儀の判断も正ならば、主君に尽くした赤穂浪士たちもまた正だった。その狭間にたって悲劇を引き受けざるを得なかった人々への思いが、忠臣蔵が今も人々を惹きつける理由かと思う。

現代からみると、やはりとらえにくい感覚のように思う。少し前の「うちらの世界」騒動のときに思って、書かずにいたのだけれど、「主君と臣下」といったローカルな絆やルールは、私たちの社会に古くから根ざしてきた。けれども近代となって、すべての人と共有しうる法律が社会のルールとなる。ローカルな絆とルールは、グループと個人が作り上げていく能動的なところがあり、より強固になりやすい。一方でゼネラル?なルールは、その上位にありながらも、個人が自身で獲得していきづらいものである。勉強して学ぶ機会がなければなおのこと。
私たちの感覚がゼネラルルールよりになっていく一方で、ローカルな絆におけるルールは、私たちの社会の根本のところに存在しつづけるのだろうと思う。そういった点で、ローカルな絆とルールというものを、ある程度は評価してとらえることは大切だろうと思う。
 
もうひとつ、忠臣蔵で面白かったのは、江戸の民衆が赤穂浪士たちに同情し、なにかと手を貸してくれる場面の多いこと。
番組で、吉良邸討ち入りの成功は、翌日には江戸中に知れ渡ったということを、「江戸の町にツイッターで拡散して」と表現していたけれど、そこには物語の共有がある。主君を失ってなお忠義を尽くそうとしたのは、大石内蔵助が君臣の絆という物語を守ろうとしたためだし、民衆もまた、同様の物語を彼らの空気の中に共有したのだった。
人が人らしくあることには、この「物語」をとらえる力があるからだと思う。もちろん、これには危険がつきまとう。ときに煽動を引き起こし、ときに誤った道にさえ、人々を向かわせることがある。「物語」には美学があり、同時に過ちがある。けれどそれは人が人である以上の業である気がする。

アーサー王の伝承に騎士道精神が混ざるようになったのは、後年のことだという話がある。だからこそ、ブリトン人の民間伝承は世界的な伝説になった。忠臣蔵もこれに少し似ているように思う。
あるいは戦国時代には必要だった武士が、江戸の安定期にあってその存在意義が薄れていく。それを思い起こさせるための幕府の演出だと番組では推測していたが、「武士道」というものが、美学をもつようになっていくのは、この太平の世にあってのことではないだろうか。その点もまた騎士道によく似ていると思う。

 
今日はもっと他にやることがあったのに、またしても長文を書いてしまった。あーあ。