読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

テロリストと殉教

tv

作られた国際テロリストの新リーダー

アブ・ムサブ・ザルカウィ

アブ・ムサブ・ザルカウィ || ヒストリーチャンネル

2006年6月、アメリカ空軍がイラクのテロリストを殺害した。アブ・ムサブ・ザルカウィ、アメリカ人捕虜の断頭シーンをインターネットで流した男だ。
2003年、まだ無名だった彼をアメリカのパウエル国務長官は、ウサマとフセインの協力者だと指摘した。イラク戦争を正当化するためである。ザルカウィの懸賞金は800万ドルから2500万ドルに跳ね上がった。演説がたった一夜で無名の犯罪者を国際テロリストに変えたのだ。


ザルカウィはヨルダンで生を受けた。パレスチナ難民を支援する仕事に就いていた父親は、彼が10歳の時に他界し、一家は困窮。これがきっかけか少年は非行犯罪に関わるようになる。
1989年にジハードに参加するためにアフガニスタンに行った後、ペシャワールで出会ったジハード思想家アブ・ムハンマド・マクディシにより、狂信的思想を学ぶようになる。マクディシと共に故郷でジハードを引き起こそうとしたが上手くいかず、1994年武器の不法所持で逮捕、砂漠の刑務所で7年の刑期を過ごした。服役中に刑務所内に渦巻く思想にふれ、過激化してしまう人は多い。ザルカウィは刑務所内で頭角を現した。
ヨルダン国王の大赦により釈放されたザルカウィは国外追放となり、アフガンに戻った。2000年頃アフガニスタンは戦乱の中にあり、アルカイダは精力的に戦いを続けていた。
彼はウサマに忠誠を誓うことを拒んだ。自分で独立した組織を持ちたいと考えていたのだ。アルカイダの幹部は上流階級の者が多く、貧困層の出身で上級幹部に昇格することは無理だった。
2001年9月11日、アルカイダによるNY襲撃。その一ヶ月後に、米国の対テロ戦争が勃発した。ザルカウィタリバンアルカイダと連携し、アフガニスタンでアメリカに反撃した。
パウエル長官が国連アルカイダイラクを結ぶ鍵となる人物がザルカウィだとし、危険なテロリストと位置づけたときから、ザルカウィはジハード集団の新リーダーとなった。
その裏で、ザルカウィが本当の敵と見なしていたのは、イラクシーア派だった。スンニ派シーア派の対立は古くから存在する。スンニ派ムハンマドの死後に後継者を選出したが、シーア派は予言者の血族だけを後継者として認めてきた。彼には中東に正統なスンニ派イスラム教国を確立するという目的があった。
2003年8月29日、ザルカウィはナザフにあるシーア派の重要なモスクを破壊した。この事件が引き金になり、イラク国内での暴動がおこった。
ザルカウィの武器は有り余るほどの自殺志願者だった。弱者をテロに追い込んでいるのではなく、正しいことをしているという認識を彼は持っていた。残虐行為には皮肉にも、世界の人をつなぐインターネットが使われた。民間人の殺害シーンは、ザルカウィの残虐性を印象づけた。映像は世界中から資金を集め、志願者を引きつけた。
アラブ人やイスラム教徒の多くはザルカウィの行動に批判的だった。アメリカに敵意を持つ人々の間でも彼の残虐な行いは支持されなかったのだ。アルカイダは彼の行き過ぎた行動は思想的根拠がないと指摘する。ザルカウィは相互利益のために協力関係を築いていたアルカイダに対して、忠誠の誓いを立てることになる。最終的にアルカイダは彼を吸収せざるを得なかった。
2005年、ヨルダンの首都アンマンで彼の一団は、三つのホテルに自爆テロを仕掛け60人以上の犠牲者を出した。この事件ではスンニ派の支配階級も多く死亡し、アラブ人やイスラエル人の逆鱗に触れた。アルカイダ幹部たちはザルカウィを手に負えないと判断した。彼の残虐行為はアルカイダが進もうとする道を妨げるようになったのだ。
2006年6月、米軍は匿名の情報提供を基に、極秘の会談に向かうザルカウィの仲間を追跡、バグダット南東にあるアジトを確認、空爆命令がでた。二機のアメリカ空軍戦闘機F16が500ポンド爆弾を落とし、建物を破壊。ザルカウィはこの空襲を生き延びたものの、爆発による怪我で一時間後に命を落とした。2006年6月7日、アメリカはザルカウィの死亡を確認。39歳だった。
イラクでは未だ内戦、宗教戦争自爆テロが続いている。ザルカウィが駆け抜けた後には、紛糾する社会が残されている。

雑感

非人道的な行いをする人がどういう心理で自身を正当化していくのか、あるいは、どのような心の働きでその残虐性に染まっていくのかという問題が、物事を見るときの私のテーマだったりする。
ザルカウィは、サダム・フセインの心理に似ているように思う。
貧しい地域に育ったサダムは、ナショナリズム思想の強い叔父の元で育ち、ザルカウィと同じく10代で犯罪事件をおこして逮捕されている。20歳の時、バアス党に入党、集会への襲撃や暗殺の実行犯など、汚れ仕事を引き受けて仲間内の信頼を集めた。大統領暗殺の計画が発覚し投獄され、たしかこの時期に、スターリンヒトラーの著書を読んでその思想に触れている。(たしかというのは、特集番組で見て、記憶が曖昧なため)
ザルカウィもサダムも、満たされない少年時代に犯罪を覚え、そして青年期にはその暴力性で周囲に認められることに気がついた。サダムはバアス党の実行役として、ザルカウィはテロの実行犯として、周囲に尊敬され恐れられた。承認欲求はやがて強い権力欲になっていったのではないかと思う。
サダム・フセインの政治を見ていると、つねに脅しを忘れず相手の恐怖心を上手く使っていて、さながら小さなスターリンという印象がある。ザルカウィも彼が自己確立のために頼った方法はその残虐性だった。
 

テロリストと殉教

アイマン・アル・ザワヒリ

アイマン・アル・ザワヒリ || ヒストリーチャンネル

1981年、エジプト・カイロ。数人の若い軍人が車から飛び降り、観閲席に向かって自動小銃を乱射した。軍事パレードを観閲してたサダト大統領は、全身に銃弾を浴びて死亡。エジプト政府はこの事件に関わった疑いのある数百人のイスラム過激派を逮捕した。その中に外科医の資格を持つ男、ドクター・アイマン・ザワヒリがいた。
エジプト当局は刑務所で逮捕者たちに過酷な拷問をすることで知られていた。逮捕からおよそ一年後に行われた公開裁判の映像が残っている。ザワヒリはここぞとばかりに集まった国際記者団に向かってエジプト当局の不当さを訴えた。
それは、ザワヒリが世界に発した最初の声だった。彼の心に生まれた強い憎しみは、20年後、世界を揺るがすことになる。

拷問はザワヒリを強くしたが、過激派としての素質が芽生えたのは少年時代のことだった。
1951年、カイロに生まれたザワヒリは、祖父をイマームと呼ばれる宗教的指導者に、父を薬理学の教授に持ち、知的刺激を受けやすい環境に育った。

彼が生まれて一年後、軍事クーデターの中、ガマール・アブドゥル・ナーセル中佐が勢力を強め、エジプトは近代化を掲げて非宗教的社会をめざした。だが多くのエジプト人はナーセルに反感を示し、イスラム法に基づく価値観を遵守した。
思想家サイード・クトゥブは、国家主義イスラム原理主義を合わせた発想を持っていた。彼は、イスラム教徒が歩むべき道を妨げ文化を破壊しているのは西欧社会だと断言する。クトゥブの権力に屈しない姿にザワヒリは共鳴した。
ナセルは反政府勢力を抑圧し、クトゥブを投獄、1966年に処刑した。この頃ザワヒリはエジプト政府を覆す地下組織の形成を始めている。弱冠15歳だった。

刑務所にいる間、ザワヒリは主犯格の仲間に関して不利な供述をするように強いられる。拷問の末に友を裏切った罪悪感は、その後も彼を苦しめた。刑務所の三年間で、図らずも彼はテロリストの教育を受けることになる。ジハードの長老から、集団を作る方法、スパイ活動のノウハウ、機密推進(?)の手段を教わったのだった。
33歳で出所した後、医者としてサウジアラビアに渡る。目をつけたのがアフガニスタンだ。この地ではムジャーヒディーンとよばれる戦士たちがソ連占領下に対するジハードに参加していた。
アフガニスタンに隣接するパキスタンの町ペシャワールで、ザワヒリはその後共謀者となる人物に出会う。ビン・ラディンサウジアラビア建設業界の大物を親に持つ御曹司であり、献身的なイスラム教徒である。ムジャーヒディーンの戦いに資金や物資を調達し協力していた。
当時は現在知られるようなテロリストではなかった彼だが、ザワヒリとの出会いによって変わってしまった。ビン・ラディンにとってザワヒリは名高い過激派だった。刑務所での映像は有名だったからだ。
ライオンの住処と呼ばれる彼らの城は、伝説の基地だった。ビン・ラディンザワヒリはもちろん、その他の有力なジハード戦士がサウジアラビアやエジプト・イエメンから集まってきた。アフガニスタン紛争の最中、ソ連の激しい攻撃を受けながらザワヒリビン・ラディンの結束は固まっていったと言われる。
1989年、ソ連アフガニスタンから撤退。ザワヒリはムラバク大統領への報復を誓っていた。1993年、ザワヒリ率いるジハード団はカイロを攻撃、この暗殺は失敗に終わったが、爆弾の破片が付近の学校を突き抜け、12才の女子学生が死亡した。この時期ザワヒリは大勢の友を失い、一人孤立してしまう。
地域に拠点を据えたテロリストたちは、周囲の声を聞く傾向にあり、行き過ぎた行動を制御する。一方、その地域から離れると過激化する。ザワヒリに自責の念にかられるようなところはなく、逆に周囲を驚かせる極端な行動に出たいと考えるようになった。
1995年11月、爆薬を積んだ車がイスラマバードのエジプト大使館に送り込まれた。この攻撃には恐るべき新兵器が起用された。それが人間爆弾、いわゆる自爆テロだった。
イスラム文化ではよほどの事情がない限り、自殺は禁じられている。ザワヒリは言葉巧みに宗教論を語り、戦争の武器としての自殺を正当化する理論を提唱した。彼は自殺すれば殉教者になれるという考え方を提示したのだ。
1998年2月、カンダハールの郊外でザワヒリビン・ラディンは歴史に残る記者会見を開いた。アメリカ合衆国に対する宣戦布告である。この会見は同時に、テロ組織アルカイダの誕生をも意味していた。
「今のザワヒリは30年前の彼とは違います。後戻りできない一方通行の道を進んでいるようです。アルカイダという後ろ盾のもと、彼はあらゆる人にテロ活動という扉を開いたように見えます」(元過激派メンバーの言葉)

雑感

二人のテロリストはまるで正反対だが、共通点もある。彼らが何もかもを失った時に受け入れ導いたのが過激派の思想だった、そして彼らをリーダーとして求めた世界があったこと。
一方でザワヒリの動機は、明らかにザルカウィのものと違うように思える。ザワヒリの刑務所の映像はこれまでにも何度か見たことあるのだけど、とても印象的で、その感情がなんなのかと今回すごく考えた。個人の存在意義の達成でもなく、思想との一体化とも違う。もっと現実的な怒り。その怒りは宗教的主張のために、自らの身を焼く殉教者のものに似ていると思った。
持論めいたものになるけれど、暴力の衝動には二種類あると思う。外に向かうものと、内にむかうもの。外に向かえば人を傷つけるが、内に向かう時には自身を傷つける。暴力的な衝動が自分に向けられた時に自傷になる。例えば、政治的あるいは宗教的主張のために自死を選ぶ者は、主張のための怒りの衝動を自分自身に向けている。自爆テロという行為は、他者を攻撃するのと同時に、自身をも攻撃する。それは外と内に向かう攻撃性の両方を兼ねる、最も激しい怒りの表現に思える。
一種崇高なものに人生を費やしたかに見えるが、彼自身に弱さがなかったわけではない。高潔に生きてきた彼は、エジプト政府に与えられた屈辱に、そしてその後おかす過ちに対して、先鋭化することでしか自分を許すことができなかった。
しかし彼が望んだ変革への代償はあまりにも大きすぎたのではないか。妻子や友人を失い、また、イスラム世界に大きな禍根を残した。その生き方が神の導きのものであるなら、己を振り返ることもないだろうか。望めるなら、彼自身がその源となった悲しみの連鎖を解く何かしらひとつのことを残してほしいと思う。

追記:

前半はザワヒリの生い立ち、後半はテロ活動について描かれているが、ここでは後半はざっくり省略した。再放送もある番組なので。(気になる人はぜひ放送を。)
番組だけ見ると、ザワヒリの影響力だけ述べられているけれど、ビン・ラディンを調べていくと、彼の周囲にはもっと様々な人脈があったことに気づかされる。ザワヒリ911を計画し、”おそらくビン・ラディンを説得した”と語られているが、この計画の実行にもっと大きく影響を与えたのは提案者ハリド・シェイク・モハメドの方だろうと思う。また、ケニアのアメリカ大使館の自爆テロザワヒリが関与した断定しているのに対し、911については「米軍が”ドクターの指示に基づき実行された”というアルカイダ工作員の電話を傍受した」という間接的な事実を述べるにとどまっている。その時は曖昧な言い回しが気になったが、この文章を書くにあたって幾つか記事を読んでいるうちに、多分その曖昧さは、彼の関与が明確でないことに正直であるためだろうと思った。ザワヒリアルカイダで大きな役割を果たしたが、彼ひとりの思想や計画だけで物事が行われた訳ではない。
可能なら、ビン・ラディンの生い立ちからもアルカイダという組織を見てみたい。少なくともチェックしている限りでは、ビン・ラディンに関しては、アメリカ特殊部隊の追跡作戦の番組ばかり。それはそれで見るんだけど。