日々帳

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[感想]琳派から日本画へ -和歌のこころ・絵のこころ- | 種山美術館

今回の種山美術館「琳派から日本画へ」展は、俵屋宗達本阿弥光悦と合作した料紙装飾から始まり、宗達光琳の芸術に影響を受けた近代の日本画家たちの作品までを展示し、琳派の水端からその発展までを追うことができる。
琳派」に明確な形はなく、なにをもってそう呼ぶのかは、そのための難しさがある。琳派とは、派閥ではないのは当然のことながら、思うに、後世の絵画の世界に大きな影響を与えた、その力のことではないか。琳派という感性は日本画だけではなく西洋画にも影響を与え、現代のデザインの世界へと受け継がれている。ではその感性がどういうものであったのかを、知ることができる美術展だったと思う。

 

和歌から絵画へ

和歌の世界をもとに絵画をなすという手法が、俵屋宗達が誰よりもはじめに手がけたのかというと、多分にそうではないだろうが、しかし彼の作品が和歌の手法をその世界観のもととしている点は、おそらく断定できるだろうと思う。

又やみぬ かたののみのの 桜がり 花の雪ちる 春の曙
過にけり 信だの杜の 時鳥 たえぬ雫を 袖に残して
後陽成天皇 和歌巻)

この二つの句の「桜」と「時鳥」は、字ではなく絵で描かれている。

文化的意味合いが象徴された語句を、その規則にもとづいて組み立てて、情緒を表す。
さくら、という語は句の中でも特別で、これに呼応する次の句の時鳥とともに、季節を表している。この特別で印象の強い単語を、絵に置き換えているというのは、意味深いように感じる。

後に出てくる俵屋宗達の作品は、和歌がモチーフとしたものを取り入れているだけではなく、その様式も、和歌のものを下敷きにしているのではないかと思った。

語呂合わせに見る縁起担ぎのように、音のもつ意味に霊性を感じるというのは、日本人のもともとの感性だろうか。分類を同じくする語句(梅・鶯)や、相対する語句(桜・紅葉)など、語句どうしの関連性にも意識をもち、”絵合わせ”(梅に鶯)、”語呂合わせ”(鹿・禄)へと発展する。
和歌における語句についての創意工夫といった音に対する深い意識の現れは、そのまま画の世界へも継がれていったように思う。

和歌をしたためる紙に雲母や箔などで施された装飾は、本阿弥光悦俵屋宗達の共作にいたって、歌を飾るのではく、書と絵が共に競い合うかのような意匠へと高められた。その先、俵屋宗達の絵の世界は、和歌の文脈で展開されていったのではないか。

この和歌巻を眺めていると、音の芸術の世界から、造形の芸術が起き上がってくるはざまに立つようで、不思議な気持ちにさせられた。

 

本阿弥光悦 俵屋宗達下絵「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」(ポストカード)※今回の展示品ではありません。光悦・宗達の合作の参考に。
本阿弥光悦 俵屋宗達下絵「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」(ポストカード)※今回の展示品ではありません。光悦・宗達の合作の参考に。

 

 

俵屋宗達:槙楓図

”槙の規則的な配置や左方に余白をとる構成は、風景を抽象化しようとするデザイン感覚がうかがえる” (図録より)

半月ほど前に熱海に足を伸ばして、尾形光琳紅白梅図屏風」を見た時にも思ったのだけど、その作品には、自然をデフォルメして象徴化し、その画面の中に再構成する手法がある。私はそれは尾形光琳独特のものかと思っていたが、俵屋宗達のときに、もう完成されていたのかと驚かされた。

この情感のない構成の美を「非情美」と呼ぶことがあるが、和歌や、俯瞰で描かれた絵巻などの下地にがあるにせよ、新しい美の様式を切り拓いた俵屋宗達という人の大きさを改めて感じさせる。後の琳派の流れにある絵師たちが源泉とした様式美は、全て彼の中に揃っていたのかという気がした。

 

伝 俵屋宗達「槙楓図」(ポストカード)
伝 俵屋宗達「槙楓図」(ポストカード)

 

 

酒井抱一:秋草図、菊小禽図、飛雪白鷺図

俵屋宗達を源泉とし、尾形光琳が彼に私淑して道を開いた琳派を、よく理解し成熟させたのが、酒井抱一ではないか。宗達光琳にみられる、対象を切り取る大胆な構図は、酒井抱一によって、より流麗なバランスにまとめられ、俵屋宗達の草案した、たらし込み技法も、さらに洗練された。

とくに「飛雪白鷺図」は、水墨画のような静謐さがありながら、質感の描き分けなど工夫をしていて、意欲的な試みが伺える。

靄のかかる川に芦の穂を挟んで、舞い降りる一羽と水辺の一羽。墨の淡い黒に滲ませておかれた緑の色が、芦の葉の光るのを表している。対して白で描かれる鷺の羽毛は、柔らかな部分を淡く羽根先は濃く描き分けられ、辺りに舞う雪は、散らせた胡粉で鮮烈に描かれる。シンプルな構図の中に、黒と白の艶の美しさが感じられる作品。

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酒井抱一「十二ヶ月花鳥図」芦に白鷺図(十一月)/「秋草図」:<「十二ヶ月花鳥図」芦に白鷺図(十一月)は、「飛雪白鷺図」とよく似た構図の作品。「飛雪白鷺図」では左上に文字(和歌?)が入っている。

 

菱田春草:月四題

この展示会のなかで、とても気に入った作品。四季ごとの月を描いている。

春、月のおぼろな明かりの中に、優艶な桜の赤と、花びらの音もなく散ってゆく様子が浮かび上がる。
夏、しなだれた柳の下、湿った夜の空気が肌をなぜる。月をうす雲がよぎると、いまにそよ風が流れて、柳の葉のさざめきを耳にするのではないかとさえ思う。
秋、葡萄のなる蔦の向こうの大きな月。縁取りを蜜色に輝かせて、成熟した秋の月のひときわ明るい光をなげかける。
冬、厚い雪をかぶった寒梅の木の枝の向こうに、冴え冴えと鋭い光を放つ銀の月。澄んだ空に、空気のぐっと冷えるのを感じる。

墨の濃淡と胡粉の白、背景にしいた金泥と、限定した色数で描かれるゆたかな四季の表情がすばらしい。

 

速水御舟:白梅、紅梅

速水御舟「白梅」「紅梅」(ポストカード)

速水御舟「白梅」「紅梅」(ポストカード)

”響き合う二つの梅”(音声ガイド)と紹介されていたように、並べられた紅白梅は、互いの相違を響き合わせているようである。

桜は色を見るもの、梅は香りを聴くものだと個人的に思っているが、それがその通りなら、この二枚の絵からは、梅の香りを感じることができるはず。

靄が漂い、深く静かな夜が紅白の梅を包む。背のひくい紅梅からは、濃厚な甘い香りがただよい、枝を高く伸ばした白梅からは、澄んだ清冽な香りが立ちあがる。ふたつの梅は向き合いながら、互いにことなる香りをはなって、呼応しあっている。

梅の花ひとつでは、近寄らないと香りに気づけないが、そのはかとない香りは、庭いっぱいに開いた梅の花からいっせいに立ち上がって、辺りにただようほどの香気となる。だから、梅の花の香りが”響き合う”のだと思う。

むかし梅の季節に京都御所に立ち寄ったことがあって、心を澄ませないと分からないほどの、しかし確かにそこに満ちる梅の香りに気がついた。香りひとつのさざめきが重なり、調和して、壮大な香りの合奏となる。その香りのなかに佇んで、香りを”聴く”とは、よく言ったものだなあとしみじみ思った。

速水御舟が、梅の香りのことを考えながらこの作品を描いたのかは明言できないけれど、ひとたびそのことに思いを巡らせば、二つの梅が響き合い呼応し合って奏でる香りが、作品からあふれてくる。

 

西郷孤月:月・桜・柳

珍しさはない絵なのだけど、なぜかとても惹かれた。”空気を描いている”と説明されていたように思うが、そのせいかも知れない。

しだれ桜、柔らかな枝の柳、靄の向こうに淡くぼんやり浮かぶ月。菱田春草の月四題などには、はっきりとした主題があるのだけど、西郷孤月のこの作品はもっと、自身の心象を写し込んでいるように思った。

 

前田青邨:鶺鴒

群青の海原をセキレイの黒い影が渡る様子を、高みから描く作品。鳥の黒い模様や海の青が、たらし込みで描かれる。

近寄ってみると、水しぶきのような泡が一面に描かれている。じっと見ていると、一羽の鈍色の鳥は、海を飛んでいるのか、水をくぐっているのかと不思議な思いにとらわれる。海原と鳥しかいない風景。青の錯覚。

 

まとめ:装飾美について

琳派においての装飾性というのが、どういう意味合いで言われているのかと、しばらく悩んでいた。

華美・装飾性といっても、今回展示された、酒井抱一横山大観菱田春草の作品には、水墨画の静謐さがあるし、一概に華美という言葉だけでは、琳派をとらえることができるようには思えない。クリムト琳派の影響を受けたと言われる)くらいになると、その語は当てはまる気はするけれど。

今回、自分の中では、その言葉の理解に近づきたいという思いがあった。琳派においての装飾が何をさすのか、きちんと説明している文章を読んだことがないが(いろいろ探した。琳派の装飾性とは、言わずとも共有された評価という印象をもった)、今回の展示で説明文を読んだり、音声ガイドまで借りて!ようやくぼんやりとは分かったような気がする。

初めは、尾形光琳光琳梅のように、のちに工芸品の模様として取り入れられたことを指して「装飾性」と呼んだのかと思った。次いでは「非情美」に示されるような、様式美に特化したことを指すものかと。

 

下村観山「老松白藤」(ポストカード):上下を断ち切る構図は琳派の特徴とも言える。古典文学では、松は男性、藤は女性の象徴とされた。
下村観山「老松白藤」(ポストカード):上下を断ち切る構図は琳派の特徴とも言える。古典文学では、松は男性、藤は女性の象徴とされた。

 

もう少し分かりやすい琳派の特徴がある。それらは本阿弥光悦と合作した俵屋宗達の料紙装飾の作品に、はっきり見ることができる。
鶴や鹿、竹や梅、秋草などの自然を図様とし、木版の型ですりだして料紙を飾る。その料紙の上で広げられた美の世界、図様の反復と大胆なトリミングは、そのまま絵画の世界へ取り入れられた。
尾形光琳の「燕子花屏風図」にはその反復性が見られるし、下村観山「老松白藤」などの作品にみる木々の上下を切り落とす構図は、強調のために他の部分を削除するトリミングを引き継いでいる。のちに琳派と名付けられるこの様式美は、和歌との交わりによって育まれた。(和歌との関連性は、図録にも詳しく書かれている。)

何をもって「装飾性」と呼ぶのかというと、絵のための絵ではなく、装飾のための絵から生まれたことによる特徴のことを指すのではないかと、今では思う。だから自然と情念をもたない「非情美」となるのだろう。

琳派の流れの中にある作品の多くは、和歌を主題に描かれている。
四季とともに詠まれる歌は、古くから繰り返し嗜まれ、人々の心に共有されてきたものだった。
自身の境遇に重ねて、時に祝賀的に、時に身を哀れんで古人の句を詠む。そのことには人生の出来事を強調して際立たせ、詠み手と聞き手ともに感じ入らせる働きがある。
琳派の様式を受け継ぐ多くの作品が、和歌や古典文学に源泉を求めることのできる、共有化された情緒を描いている。

その背景を思い描くと、琳派がもつ抽象化されたモチーフと洗練された表出という特徴も、自然と理解できるような気がする。

図録「特別展 琳派から日本画へー和歌のこころ・絵のこころー」(種山美術館)

図録「特別展 琳派から日本画へー和歌のこころ・絵のこころー」(種山美術館):良いと思った作品のポストカード版がほとんど売ってなかったので図録を購入。