日々帳

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[感想]髙山辰雄・奥田元宋 ー文展から日展へー | 種山美術館

正月あけて、久しぶりに美術展に行ってきた。種山美術館の「髙山辰雄・奥田元宋」展。
明治以降、日本画と西洋画が出会った時に、伝統的日本画は必要ないと、いったんは否定された歴史があることを知らなかった。今でこそ高く評価される点も見いだされているが、当時は日本画の技術は西洋画に遠く及ばないと考えられたのだろうか。

とはいえ、優劣を別に、その邂逅において日本画が新しい展開を迎えなければならなかったのは、自然なことのように思う。まったく新しい価値観との出会いは、その価値観が根本的に異なり、ある点においてはおのれをしのぐ時、新しい局面を迎えざるを得ないのだろう。

では、明治以降の画家たちが、日本画の価値をどのように模索したのかというのが、どうやら今回の展示の主題で、私もそのようなことを考えながら一巡りした。

答えは技術的なところにあるのではないだろう。日本人としてなにを感じて、どう表現するのか。もっと心による感性の問題のような気がした。

 

画家たちの言葉も掲げられている今回の展示会。

−私は画家の目で物事を見ないように気をつけている。政治家の目、科学者の目、神学者の目、そんなものはつまらない。私は普通の人の目で見たものを描きたい。

おおよそそんな言葉だったと思うが、高山辰雄のその言葉には、はっとさせられた。
私は専門家の目というものの見方を辿ることはわりと好きで、絵画を見るときも、技術や構造や歴史といったところから見ようとしたりしている。相手と同じ状況に自分の心を持っていって、なぜこの絵を描いたのかを想像するのは楽しい。
けれども、技術云々以前に何かを表現したいと思う人の作品というのにも出会うことが時折あって、そういう時に、本当に大切なのは技術や構造ではなく、何を感じたかということなのだと気づかされる。

 

何かの番組のゴッホ特集のときに、彼が生涯にわたってこだわったのは、見る人に感じさせる絵を描きたいということだったと言っていたのを思い出した。
高山辰雄はゴーギャンに影響を受けたのだけど、根本には近い気がする。自分の内面の深さが絵に表出する。彼の絵はとても哲学的だと思う。ある印象をとらえる鋭い感性があって、それを自分の中で深める。

 

展示室に迎える作品は聖家族シリーズを始めとした高山辰雄の思慮深い作品から始まり、ついで奥田元宗の静謐な風景画へと引き継がれる。

奥田元宋の風景画には写実性が混じる。けれどその風景や色使いは日本固有の豊かな四季に基づくもので、ここでも、技術云々ではない、彼らが絵画の中に模索した日本というものは、心によるものなのだろうと思った。

とくに「玄溟」という作品は感じるものが多くて、しばしの間、絵の前にたたずんだ。

紅葉の山に陽がかすむほどの靄がたちこめる。月さながらに輪郭をもつ太陽。色彩はけぶり、匂いたち、燃え、また凍えさせる。ひとつの絵の前で迫り来る色彩の力を感じる。風景とは心象なのだろう。その風景に見る者の心を映し出す。荘厳な風景を眺める時、悲しみや喜び、嫉妬やあこがれ、さまざまな感情は大きな自然の中のささやかな起伏なのだと知る。大きな自然の循環の中の模様を描く起伏を、それそのままに受け入れること。自然の中に心象を見るというのはそういうことの気がする。
雨に見入る時、心のうちの孤独に気づかされる。風に揺れる新緑は人の心が動く予感を教えてくれる。

厳しい寒暖の差から桜が春を彩り、紅葉が秋を彩る。それもまた人の人生に似ている。表情豊かな自然の中に命と心と世界観を映し出す。それが日本らしいのかは言い切れないけれど、日本らしい作品というものの中にはその世界観の集約が自然に姿を変えて現れてることが多いように思う。

 

この展示会のもうひとつの見所は、東山魁夷の「京洛四季連作」が見れることだろう。彼も奥田元宗に同じく、日本の風景を多く描いたけれども、東山魁夷の方が構造を単純化していて、より伝統的日本画に近いだろうか。

とくに「春静」は、その構造の美が極まった観があって、長らくその絵の前に立って眺めた。手前の桜は薄い花びらが枝の陰りと後ろの山に透け、近くの花びらは陽の光を受けて白く浮き上がる。背後に影を落とすのは深く青黒い山。その向こうに夕暮れの光が照る空が広がる。その色の三重奏を”聴く”ような作品。すごいと思う。

 

ほかには、坪内滄明「晨」、石川響「房総」、浦田正夫「糸檜葉」あたりがよかったというか、私ごのみだった。

「晨」は海岸の波打ち際に海原への視界を遮るように黒く大きな岩が鎮座している。その向こうにうっすらと光が射す曇り空と、光をうけて浮かび上がる水平線。画面を圧迫する黒々とした岩に、孤独という言葉を思った。けれども向こうに見える鈍色の中に明るむ光は、その心がまだ感じることをやめていないと知らされる。

「糸檜葉」、銀の背景に、すくっとのびる糸檜葉の木を描く。遠く側の木の肌はすこしぼやけて描き、手前の枝と肌ははっきりした輪郭をもって描かれる。木の肌には人の人生を思わせる表情がある。枝の根元はささくれだっているが、のびる枝はしなやかで、その先に緑の糸葉が垂れる。その生命力に打たれるように眺める。

「房総」は、渚にたたずむ馬という構図が前に西洋印象画の絵でみたことがあって、心の中で比較しながら見てしまった。故郷の大自然。海と渚の青の間にひっそりと立つ馬の影。印象画は一瞬の光を絵画の中にとどめようとした。この絵は印象画というくくりではないけれど、その一瞬というものへのいとおしさを思わせる一枚だった。これはポストカードにしてもすごくいいだろうなと思ったのだけど置いてなかったのでとても残念。

種山美術館は比較的小さな空間だけど、展示物は本当に濃密で、同じ作品に会いにまた行こうと思った。