日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

チャペルコンサートと神の遺伝子

先日、品川教会のチャペルコンサートに行ってきた。クリスマス前の教会コンサートということもあって、いつになく厳かな雰囲気にふれ、いろいろ考えたので書き留めておく。

オードソックスな「清しこの夜」を聞きながら、ふと神の遺伝子という言葉を思い出した。信仰心の有無は、遺伝子に組み込まれているというものだ。大げさな呼称に聞こえなくもないが、この言葉を知ったときに感じたことは、証明ができないものの存在を「ある」と信じることは、人に備わった能力のひとつなのだということだった。
日々生きる中で、それは大人になるほどなのか、時代がそうさせているのか、わたしたちは、より賢く生きようとしている気がする。
信仰心とは、賢くあることを捨てることだと思った。それは単純に愚かになるということとは違う。
非合理な情念、という言葉に最近出会って、心に響くものがあった。つとめて理性的に振舞っていても、心の奥で望むものには時として非合理さがある。それはそうと知っていながら、なおも抗い難い。非合理な情念とは、生命という事象の向こうに広がる情緒の海から出ずるもので、その広大な海に心を傾けることが、見えないものを信じるということなのではないか。
感情を律して生きても、心の底からの咆哮は消えることはない。それを非合理だと否定するのではなく、その情緒の海の潮騒に耳を傾けよう。理性の向こうにまだ知らぬ世界が「ある」と信じること。信仰心とは、単純な段階では、そのようなものではないかと思った。

実は、昔からこの題材はよく取り上げられてきたものだ。星の王子様がそうだろう。それぞれの基準で賢く生きようとする人々に出会いながら、真実を見つけられずにいる王子さまは、最後に、大切なものは目に見えないものだ、と気がつく。最も象徴的なことは、王子さまが星にかえる時、自らの身体を捨てるという行為に示されている。身体という物質的なものを超越した「目に見えないもの」は、その別れをきっかけに「ぼく」の世界に満ちてゆく。

ホーキング博士は、宇宙の誕生に神の力は必要ないと言った。科学技術の光で宇宙の闇をその隅まで照らすとき、私たちは、そこに神の姿がないことに気づくだろう。なぜなら、神の姿を「見る」ことによって知ろうとしているからだ。

私は、神や、それに相当する偉大な意志が、この世界の向こうにあるかどうか、ということに対して答えをもっていない。
けれども、広大な宇宙で地球という惑星に生命が宿り文明をもつまでに至ったことはほとんど奇跡だと思うし、目に見えないものの存在を信じ、時にそれが証明可能な事象よりも尊厳されるべきものと考えるこの特徴は、人が人であることそのものではないかと思う。極めて合理的に生きるのなら、単細胞生物の生き方のほうが理にかなっているのかもしれない。
生命という合理的な仕組みのなかに、心という非合理的なものをはらんで生きるとき、人が人として、己の時間を生きるようになるのだろう。それは一個の生命に与えられた時間が有限であることを納得させるための知恵なのかもしれないし、あるいは、命をつなぎ発展させるために必要な社会的活動の礎として宿る能力のひとつにすぎないのかもしれない。されども、やはり人である以上、理性の向こうの大海原を否定することはできないように思う。

蛇足だが、中世という時代は宗教によって自然科学の発展が虐げられてきた。中世を暗黒時代と呼ぶ時、科学技術の停滞期を指すことがある。逆の立場で考えると、現代とは宗教にとっての暗黒時代なのかもしれない。案外に、あと数百年を隔てれば、大きな揺れ戻しによって、また宗教の時代がやってきたりするのではないかと、SF小説のネタにでもなりそうなことを考えたり考えなかったり。

 

むかし、よく家の近くにあったイエズス会の教会に通っていた。母親は、その辺の自然が神様だと言いながらも、子供たちが集まる教会に行くことを許してくれた。今となって、シスターが聖書の一部分を読み聞かせてくれたり、聖歌を歌ったりするその時間が、とても貴重なものだったと気づかされた。人の知ることのできる域を超えた力に厳かな心をもって、敬意を払いながら向き合う、そのような生き方をしている人の持つ空気の清廉としていること。
それを他人に強制してはならないし、その対象に共感を持てないからと批判してもいけないが、他者への寛容性を第一として、自分を包む広大な力を感じることは、人にとって本当は貴重なことなのだと思う。

そうとはいえ、なかなかそのような機会に恵まれることが少ない日々の中で、年に一度はその気持ちに出会えることを幸福に思えたコンサートだった。