日々帳

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[感想]美術にぶるっ!ベストセレクション日本近代美術の100年 | 東京国立近代美術館

60周年を記念して公開された東京国立近代美術館のコレクションベストセレクト展、近代以降の日本の画家の作品たちをじっくり見て回れる美術展です。作品ごとの解説が丁寧で、時間ごとに案内ガイドが絵の説明をしてくれるツアーがあったりと、絵画…それも国内の作品となると、なじみがないと思ってしまう(私のような)人にも楽しんでもらえる工夫がされています。

19世紀末から20世紀の初頭にかけて西洋絵画は、ジャポニズムの影響を受け、その方向性を大きく変えますが、日本画にとってもそれは同じことだったようです。それまで平面的な構図と明確な輪郭線をもった作品が、奥行きをもったり、強い輪郭線を失っていったりします。新しい絵画の技巧と、これまでの自分たちが育んできた表現法との間をさまよいながら、画家の独自性を加え作風を確立していく、その葛藤の様子がそれぞれの作品から感じられるような気がしました。

西洋絵画に習う作品には、技巧のみならず、当時の新しい時代の空気を取り入れたものが多く、見ていて面白さを感じましたが、屏風絵など、伝統的日本美に則った作品は圧倒されるものがあって、これぞ日本画という気持ちになり、見応えがありました。ここでは見てきた展示作品から印象深かったものをメモしておこうと思います。

 

河合玉堂「行く春」

この六双一曲の屏風は、長瀞の川のせせらぎにしんしんと花びらが降り注ぐ様子から始まり、やがてその先には荒い岩場に枝を広げた絢爛な桜が姿を見せる。日本画というものは、体験する美なのかもしれないと感じさせられました。絵の一方の端から物語は始まり、次第に見事な春の風景に誘われる。それは見る者を時間の流れの中におき、静かに始まり、やがて盛り上がりへと到達する音楽のようでもあります。一枚で完結する絵画と異なり、その作品が空間におかれることを意識し、また観る者の佇む空間に新しい時の流れを加えています。

 

横山大観「生々流転」

その向かう並びには横山大観「生々流転」、一滴の水が川におち、やがて大海に交わり、空へ還る。その物語を、彼独特の輪郭線をもたない淡い濃淡で描き、構図はもとより、たおやかな流れ、荒い波しぶき、そして大海原にくだける波など、水ひとつとってもその表情を繊細で緻密な筆で描き分けています。日本美を、侘び寂び、間の文化などと言うことがありますが、この作品にはまさにその緩急の流れがあり、穏やかの流れの中に一羽の水鳥がたたずむ様子など、静かながらしんと引き締まった風景のすごみがあります。水とともに生きる鳥や人の姿がおぼろになり、やがて荒々しい海へと到達する。その人の智を超えた未知の領域には、これまでのたゆたうような流れとは異なる、烈しい自然の荒ぶりが渦巻いています。その東洋的な世界観をはらんだ物語性もまた、この作品の魅力でもあります。

 

左:河合玉堂「行く春」右:横山大観「生々流転」

 

川端龍子「草炎」

下階の日本画フロアに進むと、展示室の奥に荘厳に佇む一枚。この辺りはガイドさんの案内ツアーにくっついて聞きながら見ました。浄土の土が瑠璃色であることから、背景に藍色を使うのは昔ながらの様式なのだとか。夜の漆黒とみまごう濃い藍に、金泥で濃淡をつけながら草花が描かれています。しかしよく見ると描かれているのは名も華やかでない雑草たち。モチーフとなったのは画家の裏庭の草花でした。また、葉のひとつひとつを眺めると、金泥の濃淡によって、写実的に描かれていることに気がつきます。光はまるで天上から注ぎ、葉を広げた草花にしっとりと月光が降りそそいでいるようにも見えます。紺と銀の二色で表されたこの静謐な作品は、一見伝統的でありながら、西洋美術の写実性や身近なものを主題に得るという近代的な感覚を兼ね備えています。

 

加山又造「春秋波濤」

六曲の屏風に、桜と紅葉を描いた作品。異なる季節をひとつの作品におさめることを『時無し』というのだそうで、これはそれにならった作品なのでしょう。後ろにかかるのは、太陽という説もあるとガイドの方が説明されていましたが、改めて考えると、やはり秋の季語である月でしょうか。松の描かれた山が冬を示し海と太陽が夏…とも考えたのですが、なにせ題名に「春秋」とありますから。
春山と秋山の間をうねるように流れ行く水の流れは、遠ざかるはずの後方が強くせり上がるように描かれ、しぶきをあげる波は、細い刃物で傷を付けて描いたように細かく四方に散っています。伝統的な日本美が濃縮されたような中で、遠近法に逆らった構図や表面を削るような西洋絵画で使われる技法などが施されています。加山又造は、もともとは西洋画を学びながら、留学先で日本人が西洋画を描いても評価されづらいと感じ、帰国後は日本画に転身したといいます。伝統的な様式にそっているようで、西洋絵画を学んだ彼ならではの新しい試みがなされている一枚です。

 

左:加山又造「春秋波濤」右:川端龍子「草炎」

 

次は、西洋絵画の手法によった作品をいくつか記してみます。

 

高村光太郎 手
荻原守衛 女

ロダンの影響を受けた彫刻作品。螺旋に立ち上がるような動きのある造形が特徴。
どの角度が自分にとって好みかを見るのが、初心者にささげる、彫刻の見方のこつだとどこかで読んだ覚えがあるのですが、その愉しみをもって眺めると、作品の周りを何周もしてしまいそうでした。彫刻でありながら筋肉の動きを感じさせ、その動きを備えた造形美は飽きることがありません。

 

川上涼花 鉄路

ゴッホの風景画の影響を強く受けた作品。緑がかった影と、日差しがあたって輝くオレンジ。彼の補色と厚塗りでもって表現する一瞬の黄金の輝きの特徴を受け継いでいます。
ひとつ気になったのが、電柱の影と思わしきものが絵の手前に落ちているのだけど、絵の中央から奥へとのびる鉄路の向こうに輝く太陽があり、そうすると影はそこに落ちないはずなのです。これはわざとなのでしょうか。だとしたら、どんな意図があるのでしょう...。

 

長谷川利行「タンク街道」「カフェ・バウリスタ」

「タンク街道」は、赤・緑・黄の彩度の高い三色を黒と組み合わせながら、颯爽としたタッチで描いた作品。軽快ながらどこか殺伐とした都会の情景を描いています。隣の「カフェ・バウリスタ」は、当時、人気のあったカフェの光景を切り取った一枚。これも荒い筆で描かれ、店内のに喧噪にも似たぎやかさが伝わってくるようです。完成度よりも、自分が感じているものをどう表現するかに重きをおいているようで、その感性の鋭さや、それを表現する手段の的確さなど、印象に強く残り、希有な作家に感じました。本人は放浪生活の末なくなったようで、「カフェ・バウリスタ」は払えなくなった家賃の代わりに下宿に置いていったものを、2009年に「なんでも鑑定団」で発掘され、近代美術館が買い取ったのだとか。いろいろすごいです。

 

牧義夫「赤陽」「御徒町」

版画家。「赤陽」は、地平ちかくの太陽に照らされて都会に落ちる建物の影を描いています。俯瞰で見下ろす通りには百貨店らしき建物が立ち並び、明けか暮れか、陰りとなっている。その通りや建物に走る細かく鋭い線は、眺めていて、ふと薄氷の解ける様子なのだろうかと思いました。想像でしかないのですけれど。都会の刺すように冷たく凍えそうな朝、ビルの向こうからゆるゆると太陽が昇ってきます。通りにはった氷は光を受けて銀色に輝く。白と黒の世界に、うっすらと差し込む太陽の赤がひときわ鮮やかににじむ。
「御徒町」では、太い輪郭線で駅の様子が描かれています。ビルや電車の窓の緑の輝きが、夜であることを教えてくれます。小さの枠の中の黒と白だけの世界に、ひとつ色をさす。そうすることで作品の中に時間を与えています。少ない材料で感じてる豊富なものを表す、それは彼が意識してとっていた手段なのだろうかと不思議になりました。
彼は24歳のときに東京で失踪しているんだとか。繊細な感性が映し出す都会の風景というところでは長谷川利行に似ているのかもしれません。

 

木村荘八 永井荷風「濹東綺譚」挿絵

これで最後。永井荷風「濹東綺譚」の挿絵として描かれた数枚。別段うまいもへたもないのだけれど、当時の風俗がそのまま映されているようで、好きな人は好きなんじゃないかなあと思ったり。わたしはすごく好きなので、3度繰り返し見てしまった。色つきの紙に、スケッチ風にペンで描き、明るさを白の筆を加えて表現してます。話は、初老の小説家が雨の日に傘に入れてやった遊女と仲を深めてしまい、一緒に生活をともにするようになるが、その内彼女は所帯を望むようになり…。都会の路地裏といった風情か、新しい時代の匂いに華やぐ街と侘しさの交じる二人の生活が、当時の東京の風景の中に描かれています。

 

あてもなく思考してみる

つねづね、日本の文学は私小説、海外の文学は数人の人生が絡むドラマ、と思ってきたのだけど、絵画に関しては逆なのではないかと考えたりしました。伝統的な日本の美術作品の世界観は往々にして俯瞰的です。それは地上を離れ、時というその概念からも離れ、それらをはるか高みから見下ろしているようです。
しかし、開国以降、西洋の美術が日本に入ってくると、個人として何を感じるかを重視し、また、個人的に関連の深いものを主題に選ぶなど、個人という視点が日本美術の中に起こってくるように感じました。
それは、西洋において画家たちが時間をかけゆっくり獲得していったものとはおそらく違います。開国後に新しく開けた広大な表現世界に、自分たちがどうあるべきかを焦燥をもって模索する姿のようにも思えますし、自分が自分以外の誰でもないという意識は、周囲から逸脱した感性を持った人間ほど、渇望するものであったのかもしれません。
だからこそ、絵画において個人的な視点というものが急進的に吸収され、近代以降、様々な表現と作品が花開いたのではないか。屏風絵に多く見られる、伝統的美を受け継ぐ作品には依然として、時間と空間を見下ろす俯瞰的なまなざしがあります。しかし一方の新しい表現を試みる作品の数々には、強い「私」という意識があるように思います。
ゴッホに影響された作品が多いのもまた印象的だったのですが、それは彼の表現技巧というよりは、その強い情熱に心打たれた人が多かったのではないでしょうか。ゴッホは日本美術から象徴性を学び、日本美術はゴッホから個人が”何を感じるかを描く”ということを学びました。互いを鏡にして全く違うものを映し見る。不思議な相性ですね。ここまで全て、まったく勝手な持論ですけれど。

 

まとめ

改めて思ったのだけど、絵のうまい下手や技巧がどうというより、どの作品もその時代の空気を吸って生まれてきていて、その時代の湿度を感じるのが、美術の愉しみでもあるなあと。やがて近代を経て現代へとさしかかると、絵画は感じることをやめ、思考するものへと変化していくように感じられました。作品より作品名の方により芸術性が隠れている気さえしたりします。
濃密な美術展で、一日ではたりないと聞いていたのが本当でした。11:00ごろ入館して17:00の閉館に追い出されるように出てきましたが、一階の二部展はほとんど見れてないのです…。
国立近代美術館は、クレー展の時たちより時間があったので、今回のコレクション展にも重なる常設展に寄ったことがあるのですが、人が少ない割に見応えのある作品が多くて贅沢だなあと思いながら作品を堪能した記憶があります。当時は、東山魁夷と福田平八郎「雨」あたりに感動しました。今回並んだ作品以外にも、印象に残る絵が展示されていたと思うので、この展示会が終わってからもまた行ってみようかな。